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『はじめまして地球さん、私オレンジジュースです』第二話「清算するには凄惨を」串田留衣編

 オ オ オーレンジジュース 
 オレンジジュースを搾り出す

 私の体から





「はじめてですか?」
 キューブリックの『2001年宇宙の旅』ぜったい好きでしょ、と声に出しそうになった。出さなかった、と思う。白を基調とした近未来的な壁と床、そしてアンティーク調のソファと受付カウンター。中途半端だったらかなり如何わしい雰囲気になるけど、ここは徹頭徹尾やりきっている感じ。キューブリックへのオマージュ映画のセットと言われても納得できる。ううん、違う。そんな軽いものじゃなくて、この空間を良しとした人──個人医院なので医院長だろう──の強い美学を感じる。会社の近くにこんな素敵な歯医者があったなんて。最高。これはリピ決定。
「はい」
「ではマイナンバーカードをそちらの機械に置いてください。保険証でしたらお預かりします」完璧な前髪の分量と、光を祝福として吸収した艶やかな明るい髪。メイクは一見薄く見えるが、コンシーラーの使い方とハイライトの入れ方が完璧──と、この一瞬の私の観察に気づいていないふりをして受付の女性は特段意味をなさない微笑みを向けてくる。
「保険証ならあります」
 すっと受け皿代わりの乳白色をした天然石に保険証を置く。カウンターの隅に置かれた安っぽい小さな長方形の機械だけがこの空間にミスマッチで、自分が持っていたのが保険証でよかったと安堵する。私はここの美の均衡を汚すことに加担してはいない。
「今日はどうされました?」私と同じ歳くらいだろうか。それにしても、ものすごい美人。何から何まで私好みすぎて、ここが現実だということを忘れてしまいそう。
「虫歯があるみたいで」
「虫歯の治療ですね。ソファーにおかけになって、こちらに記入をお願いします」
 問診アプリがダウンロードされたタブレットを受け取り、後ろを向く。ソファはどれも一人掛けで、これはここに入ったときから気に入っていた。長椅子は好きじゃない。例えば、三人掛けの端に座ると、次の人が反対側の端に座った場合、真ん中は遠慮してしまう人が出てくる。真ん中に座ると、左右どちらも接近することになるので、これも遠慮してしまう人がいる。こういった遠慮がちな人が損をする構造がデフォルトとなっている椅子は無駄に申し訳ない気持ちが生まれてしまうので座る前からストレスになる。すべての椅子を一人掛けにしてほしいところだけど、面積やコスト(多くの椅子を用意するには椅子の質を下げるという問題)など座れる人の絶対数が減るという問題が生じるので無理なのはわかる。でも、嫌いなものは嫌い。なんてことを考えながら腰をおろすと、とろけるように滑らかでフィット感のある座面にお尻を包まれ、無意味で冗長な思考はどこかに吹き飛んでしまった。まるで私のために設計されたよう、とまあそんなわけはないのでおそらくその世界で有名な職人がつくったんだろうけど。ああ、もう何もかも最高。歯痛、万歳。
 あっ。
 そうだ。歯が痛かったんだった私。多幸感は痛みを忘れる効果があることを知り、同時に痛みを再び思い出す。
 今朝、いつも通り胃液オレンジジュースを絞り出していた。便器に顔を突っ込みながら。
 太った原因はわかっている、吐くようになった原因も。珠紀の結婚式だ。あの日以後、二日間も体重計に乗らず鏡を見なかった自分の怠惰さをぶん殴りたい。おかげで体重が二・五キロも増えてしまった。体重が増えているのに、筋肉は落ちていた。鏡に現実を見せつけられた瞬間、私の皮も骨も肉もすべてが緊張感を失い、ぶよっと忌まわしい弾力性を持った物体に変わり果て、耐えきれずにトイレで全部吐き出した。吐き出したあと、体に取り憑いていた忌まわしい感触が一つ浄化された気分になった。珠紀の結婚式で赤ワインの滝を流してやったときに似た、穢れを祓った感覚。最高。それから吐くことが朝晩の日課になってしまった。会社ではさすがにできないので、お昼はプロテインドリンクだけを飲むようにしている。もちろんこんなことを続けていいわけはないし、きっと数日で戻せると楽観的にみていた。でも、体重だけは戻ったのに、体型は戻らない。鏡は相変わらず醜い私を映してきた。
 許せない。
 私の美を私自身が壊しているのだから、何よりも許せない。
 それから食べる量を最小限にし、吐くことはそのまま続けた。たとえ胃液しか出なかったとしても。
串田くしださん、中にお入りください」
「はいっ」
 子供部屋で秘め事をしていたらノックもなしに親が部屋に入ってきたときの緊張感に似た、反射的に背徳感を打ち消すやけに威勢の良い返事をしてしまう。恥ずかしさのあまり周囲を見たが、近くに座っていた女性も、その先の男性も何事もなかったかのようにスマホに夢中になっていた。こういうとき、スマホ時代で良かったと思う。もし一瞬こちらが気になっていたとしても、すぐにこの人たちの興味は画面の中に閉じ込められてしまうだろう。
 受付の女性とはタイプの違う、ややつんとした艶美な女性──医院長と美意識が合いそう──に案内され、入ってすぐの診察台に座らされた。仕切りの向こうからは、医院長と思われる年配の男性の声と、私の母親くらいの女性の声が聞こえてきた。二人とも、やや控えめの声量だがはっきりとした口調で、聞く気がなくても聞いてしまう。
「先生、いっそ神経を取ってもらいたいんですけど。あのビリッとした痛みがまた来るかと思ったら怖くて」
「それは辛いですよね。ただ、レントゲンでも歯に異常は見られないんですよ。痛みは常にきますか?」
「いえ、ときどき。でもすごく痛いのが前触れもなしに来ることがあって」
「電気が走るような」
「そう」
「なるほど。もしかしたら神経障害性歯痛の可能性を考えてもいいかもしれません」
「神経障害って」女性の声に不信感と不快感の色が混ざる。
「ときどきいらっしゃるんです。これは歯の治療では改善しないものでして」
 私が聞き耳をたてていると、案内してくれた女性が白く細い指で私の首にすっとエプロンをかけてきた。その手つきがやけにエロティックで、思わず背筋がぞくっと震えてしまう。
「まずはクリーニングからしていきます。椅子を倒しますね」あの指使いは何だったのと言いたくなる熱のない声で、歯科衛生士の女性は言う。
 ゆっくりと視界が天井に向いていくなか、穏やかな気持ちでいたいのに、隣の女性は苛立った口調が聞こえてきてしまう。
「歯の神経が悪いってことじゃないんですか。だって痛いのは歯なんですよ」
「モニターを見てもらっても良いですか」
「さっきから見てます。でも実際私は歯が痛いんですよ。左の奥から二番目の歯。先生、右左、間違えていません?」
「間違えていたとしても、反対側の歯も異常はないんですね」
 なぜそこまで疑うんだろう、いや、なぜそこまで自分を過信できるのだろう、そんなことを考えていると私の唇に彼女の指が触れた。ごくりと生唾を飲む。こんな美人が私の口の中に指を入れているのだ。緊張しない人なんているのだろうか。
──自分の指を突っ込むときとは大違い。私の手でもこんな高揚感を味わえたらなら、毎朝どれだけ幸せか。
「とにかく、痛いからすぐ抜いてほしいんです」再び隣に意識を向けると、いつの間にか女性の声から世間体という文字が抜け落ちていた。
「悪くもないのに抜くことはおすすめできません。しかも、神経障害性歯痛の場合、抜いても他の部分が痛くなり改善はしないんです。いきなり抜いてしまう前に、まずはペインクリニックでみてもらうのはどうでしょうか」
 女性の口調が滑稽に思えるほどに、落ち着いた声。私だったらこんな声でいなされたら羞恥心から黙ってしまう。
「抜かなくてもいいから、とにかく治してもらっていいですか」
「悪くもない歯の治療をしたところで、結局痛いままです。痛いままでいることが辛いのはわかりますが闇雲に治療するのではなく、痛みの原因をはっきりさせた方がいいでしょう」
 なんて心強い言葉。思わずスタンディングオベーションをしたくなる。せんせ、素晴らしい。
「原因が分からないからって、私の神経がおかしいみたいに言うのはどうかと思いますけどね。もう結構です。痛み止めだけ出してもらっていいですか」
「私の言い方が不快でしたらすみません。ただ、痛みは原因を究明しないと長期的な苦痛になるだけです」
「痛み止めくらいは出せますよね」
「わかりました。とりあえず三日分出しておきますね」
「一ヶ月分にしてください。もう二度とここには来ませんから」
「三日分しか出せません」医師の声は柔和だが決して覆すことはないという強固なものが感じられた。
「もうそれでいいです」
 わざとらしいほどの大きな足音たて、女性が私の頭の向こうを通過して行く。なぜあの女性は頑なに医師の診断を受け入れられないのだろう。なぜそんな捉え方になってしまったのだろう。医師の言葉に「あんたの神経がおかしい」なんて含意をどうやったら見つけ出せるのか。そういえば最近母親も頑固になってきた気がするが、もしかしたら歳を取ると人の意見が聞けなくなるのだろうか。ただ、たった二人だけの例だけで、「高齢」という日本の人口の三割近い人間を知った気になるのは危険だ。これは気をつけなければいけない。思い込んでしまうと、なかなかその沼から抜け出せなくなる。つい先日、会社の後輩である福田君が飲み会の帰りに、「女の人ってすぐ感情的になるよね。男ってさ、脳の構造が女性とそもそも違うから、かっとなる前に冷静に状況をシミュレーションできるんだ」と新宿の路上で殴り合っている男性たちを前に平然と語っていたことを思い出す。一緒にいたくすのきさんは彼の意見に反論しなかったので、私が「ほら、あれ」と殴り合いをしている人たちを指差すと彼は「あれは前世が女なんだよ」と涼しい顔で返してきた。「どうして彼らの前世がわかるの?」「感情的になる人間は絶対前世が女だからだよ」「それを確認する方法はある?」「じゃあなんで串田さんは自分が人間だって言えるの? 確認する方法は?」酔った彼にアリストテレスが人間とは国家ポリス的動物であると言っていたとかサルトルが実存は本質に先立つといった話をしたところでより面倒なことになりそうだし、何よりも私がそこらへんの話をふわっとしか理解していないし、そもそも人間とはという話には例外を出そうと思えばいくらでも出せてしまう。なので私は「ヒトゲノムを持っているから」と答えた。「えっ、ゲノム見たことあるの? すごくね?」楠さんに同意を求めるが、彼女は曖昧な態度を貫き、私たちのくだらない会話がはやく終わることを祈っているようだった──ああ、そっか。もしかして、人間とは信仰心があるないにかかわらず、神という存在を「認識できる」ものなのではないか。私も信仰している宗教はないけど、神さまという言葉を否定したことがない。ただこれも例外は考えられて、この世界で神を知らずに生きていくのは難しいだろうけど信仰という概念や知識がない環境がないともいえない。とはいえ、ヘレンケラーも「言葉」を知る前から神という存在を認識していたという話が本人の著書に書いてあった記憶がある。もしかしたらこれは人間を定義する要素として大きく外れていないかもしれない。なんてことを考えている間にも後輩くんとの会話は続く。「ゲノムを調べたことはもちろんないけど、調べてもらったらはっきりするわよ」「だったら僕やあの人たちの前世の話も調べてもらったらわかるよ。調べたらわかることだから、僕も串田さんと同じく感情的になる人間はすべて女だと断定するよ」「ヒトゲノムは解読されているけど、前世って本当にあるの? 前世論が確固たるものとして解明される前に語るのは、事実を確認せずに自分の直感だけで結論を出す、つまり冷静さを失う危険はない?」「ほら、串田さん、いま冷静さを失ってるでしょ。そういうところだよ」うわあ、冷静じゃないどころじゃない発言。小学生レベルだ。と、さすがにこれは言っても相手を挑発するだけになるだろうから黙っておいた。「確かに串田さんって思ったこと言わないと気が済まないタイプですよね。私、言いたくても言えないから、羨ましいです」楠さんは着ているふりふりしたブラウスがそのまま喋っているような声を出す。なぜ彼女は、私が思ったことを口に出していると勘違いしたのだろう。思ったことを口にしたら、私はとっくの昔に誰かに刺されている。だいたい、福田君への質問は喧嘩がしたかったのではなく、なぜそんな考えになるのかを知りたかったから。ただ、これはとんだ徒労に終わったけど。「いや、思ったことを口にするより考えていることのほうが多いよ。しかも、いま私結構冷静に質問していたんだけど」と返しておいたが、福田君も楠さんも私の話など聞いておらず、いかに女性が感情的か論に熱が入り、なぜか同じ女性であるはずの楠さんも「そういう人いますよね」と自分だけは例外かのように同意していた。
 違う。
 いまは歯医者にいるんだった。
 とりあえず先ほどの医師と女性のやり取りでわかったことを整理しなければ。この病院は美的センスも抜群だが、医師としても信頼して良さそう。何も治療をしないより治療をした方が儲かる。そんなことは当たり前だ。けれども、そこをあえて断るなんて、相手を怒らせたとしても歯の健康を守ろうとする気概が感じられる。少なくとも金儲けが最優先の精神の持ち主ではないはず。
「口を濯いでください」エロティックな指使いの歯科衛生士は、変わらず情熱を滅却した声で言う。診察台の背もたれ部分がゆっくりと起こされ、いつの間にか唇に触れていた指の感覚も消えていた。いつもこうだ。私の思考は私の快楽の邪魔をする。
 薄緑色の液体が注がれた紙コップを手に、これがフレンチブルーだったらとやや落胆し口に含む。食べたい衝動に駆られていないときに口にものを入れると反射的に吐き出しそうになるのを堪えつつ、口の中で液体を転がし、そっと排水口へと流す。不自然な動きはなかったはず。それなのに、なぜか歯科衛生士の視線がカウンセラーが患者を観察するときのそれに見えてしまい、私は視線をすぐに逸らした。
「診察台を倒しますね」
 口を濯ぐだけの行為でいったい何がわかるというのか。落ち着け、私。
「串田さんですね、曽根ですよろしくお願いします」
 先ほどの男性の声がすぐ横から聞こえ、首を横に向ける。そこには、誠実さを基盤に作られた彫刻のような顔立ちをした白髪の男性の姿があった。そもそも、歯科医に自己紹介をされたのははじめての気がする。
「今日は虫歯のような歯痛があるということですね。上の前歯ですね」タブレットを確認しながら医師は先ほどの女性に接するときとまったく変わらぬ口調で話しかけてくる。
「はい」
 医師の視線がやや上にいく。おそらく私を挟んで向かい側に立つ歯科衛生士の女性を見たのだろう。なぜ見たのか。口がやけに乾き、私は舌先でさっと唇を舐めた。
「じゃあちょっと見せてもらいますね」
 医師が銀色の器具を私の口の中へ入れるが、これがまったくもってセクシーじゃなかった。口腔外バキュームの方がまだまし。もし女医さんだったらと思いつつも、そういえばいままで歯医者は男性ばかりだったなと思い返す。
「スポーツドリンクとか、酢のものとか過剰に摂取されています?」
 医師は器具を私の口から出し、清潔なトレイにそれらを等間隔に並べる。
「いえ。スポーツドリンクは飲まないです。お酢もそんなに」
「では、グレープフルーツとか柑橘系を多く食べられるとか」
 何の話をしているのか。医師が言った言葉を脳内で繰り返し、それらの共通点を探す。もしかして、と鈍い私はやっと気づく。
 酸蝕症。
 そうだ、前にネットで見たことがある。拒食症の人が自分の胃酸で歯がボロボロに溶けていた画像を。まさか私の歯も溶けているとか?
「柑橘類は好きですね」落ち着いて返したつもりだが、体は熱く鼓動は暴れはじめていた。
「日に何個も食べたりとか」
「まあときには」曖昧な返事しか思いつかず、余計に焦りが生じる。
「やはり。実は歯の裏側が溶けていまして。そのせいで痛いんだと思います」
「えっ溶けているんですか」いかにも驚いた声をつくったが、わざとらしかったかもしれない。
「とは言っても、軽度ですけどね。虫歯になるまで進行はしていないようなので、おそらく知覚過敏でしょう。念のためにレントゲンを撮りますね」
 軽度という言葉へか、私が酸性のものを過剰に摂取しているだけの人と思われていることへの安堵感か、そのあとは冗長な思考に邪魔されることもなく、ごく普通に歯医者に来た患者として一連の流れ作業をされるがままに受けていた。このまますっかり帰るつもりだったのに、最後の言葉さえなければ。
「やはり虫歯にはなっていないようですね。知覚過敏の薬を塗っておきます。薬の効果が切れてきたらまた来てください」
 なんだかこんな簡単なことで解決するのか。今度は歯のホワイトニングでも頼もうかな、なんて呑気に考えていたら去り際に白髪ダンディーは弾丸を打ち込んできた。
「ただ根本を解決しないと悪化してしまいます。まずは酸性のもの、果物とか酢とかそれから胃酸もそうですけど、そういうもの避けて歯を守ってください。歯は大事ですよ」
 知ってたじゃん!

 病院を出てため息を吐く。自分の前の女性に対しては的確な診断をしていると思った医師が自分のときだけは見抜けないと思うなんて、やはり私も私を過信していた。ぼんやりとした頭が出したメンタルレスキューはスマホを出すという指示だった。いま見なければいけない理由はないのに、無意識に画面を見つめる。いつから私は心を落ち着かせるために、うえではなくスマホしたを向くようになったのだろう。子供の頃は確かに空を見上げていたのに。
 画面には今日の予定が表示されており「シンガーの会」とあった。あのSNSルームは隔週開催といっていたから、そっか、珠紀の結婚式から二週間も経っていたんだ。画面を見つめたまま暫く固まっていると、あやからメッセージがきた。
『今日、お店に来れそう?』
 珍しい。いや、むしろ文から来てほしいなんて聞いてくるのははじめてだ。しかも、文が働くレズビアンバーは人気店なので、金曜日はいつも満席なのに。
『何かあった? 今日はお店混むでしょ』良いとも悪いとも返事をせず、まずは状況確認の内容を送る。
『留衣に来てほしいの』
 混むことは否定しない。でも来てほしい。これは余程のことがあったんだろうなと考える。とはいえ、文は困ったときは自分で解決するタイプだ。お店から集客ノルマが出たときは、酒好きが喜びそうな企画をし、この企画に興味のある人は来てほしいといった内容をSNSには投稿したりはする。なので集客目的ではないはず。考えられることは、店のスタッフが文に頼んで私に来てもらえないか聞いた、とか。ただ、スタッフの子が私に来てほしい理由は? 私が医者や弁護士や不動産会社など役に立ちそうな職業ならわかるけど、ただの事務職だ。しかもうちの会社は、学校給食や企業の食堂を運営しているので個人経営のバーに有益な情報は提供できそうにもない。それとも私なんかでは想像もできない悩みで、しかも私が助けになれる、とか? これは考えても答えは出ないので、率直に聞いてみるしかない。
『どうして私に来てほしいの? 会いたいだけなら、お店終わったあとに家に来ても良いよ。エッチができない日なら一緒に寝るだけで良いから』
『どうしてもお店に来てほしいの。留衣に会いたいの。だめ?』
 これ、本当に文からのメッセージだろうかと一瞬疑った自分に辟易する。この文体は文だってすぐにわかるだろ、馬鹿な私さん。文字だけで彼女の笑顔が浮かぶ。繋いだ手の温もりを、触れた指先が震えるほどに柔らかな乳房を感じられる。愛してるから。私は。でも、いくら恋人だと言っても、私と文の間に「お店」を挟むと二人の関係は客と店のスタッフになってしまう。だから、店に誘導するのは当然のことだろう。毎日来るメッセージもベッドの上での喘ぎ声も、やはりどこかで仕事と繋がってしまう、それは仕方のないこと。スマホの画面から視線を剥がし、青と朱色が混ざり始めたを見上げる。
──でも、それでも愛する人に会いたいと言われたら、断ることなんてできない。

 昔、私が人生最後に愛したことになる男とセックスをして「イケない」と言われた。何回やっても彼は出せなかった。私とは。半年後、彼から別れを告げられた。まだ高校生だった私には、それは愛に対する死刑宣告だった。だから、大学に入って珠紀と合コンしまくって、毎回好きでもない男とホテル行った。でも、行ってみたものの、好きでもない男の裸を見たら「愛」を裏切っているような気がして何もせずに帰った。何度かは喧嘩になって、殴られそうにもなったけど、それでも強引にされたことはなかった。あれって強運だと思う。大学を卒業して、すっかり合コンにも飽きた頃、一人でふらりと入った鉄板焼き屋で声をかけてきたのが文だった。隣にいた子は文と同じ店で働いているスタッフだった。
──お姉さん、良い飲みっぷりですね
──ここウニクレソンが美味しいんですよ。もし良かったら私たちとシェアします?
──ビールのメガジョッキをその勢いで飲む人、はじめて見ました
──あ、やばい、遅刻しちゃう。お姉さんと喋っていると楽しくて時間忘れちゃった
──私たちいまから仕事なんで、お先です
「待って!」
 あのとき、私は思わず文の手を掴んだ。そのきめ細やかで柔らかな感触、じんわりと握ったこちらの溶かすような体温、あれはいままで味わったことのない陶酔感をもたらしてくれるものだった。掴んだまま離さないでいると、すすすとゆっくり手を抜き、文は微笑むような困ったような顔でこう言った。
──私、レズビアンバーで働いているんですけど、それでも良ければお店に来ます?

 静かに瞼を閉じ、深い呼吸を数回繰り返す。よし大丈夫と小さく声を出し、もう一度視線を画面に戻す。
『だめじゃない。お店に行くよ』
 そこでふと「シンガーの会」が脳裡を過ぎる。謝罪しなければいけないので、思い出すべきことなのだけど、なぜこのタイミングで思い出したのだろうと自分でもちょっと不思議だった。
『ただ九時から用事があるからそのあと行くね。一時間以内には終わると思う』
『ありがと、留衣。愛してる』
 文からの愛してるに、ビスカッチャ──眠そうな目をしたウサギにも見える齧歯類──がモデルのキャラクターが投げキッスをするスタンプも添えられていた。
「よし、とりあえず酔った勢いの愚行を清算して愛する人を助けますか」

 ただし、愚行の清算は凄惨なものとなるのだが。

#創作大賞2024
#恋愛小説部門
 

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