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夢みる人は足を食べる。

 なんというか、深く感動したとかいうわけではないのに、時々爆音で脳内エンドレスリピートが発生する(そして唐突に終了する)言葉って、ないです?

 私はあるんですよね。

 それは、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』。赤の女王の庭(女王にとっては庭ではなく荒地だそうだ)にて、アリスが汽車に乗った場面。

「乗車券を拝見します!」車掌が窓から顔を覗かせて言った。みんなはさっと切符をさしだした。みんな人間とおなじくらいの大きさで、どうやら客車は満席のようだ。
「さあさあ、あんたも切符を見せて!」車掌が怒ったようにアリスを見た。すると大勢の声がいっせいに言った(合唱みたい、とアリスは思った)。「あんた、車掌を待たせちゃいけないよ! なにせ車掌の時間は一分あたり千ポンド!」
「それが持っていないんです」アリスはびくびくしながら言った。「乗ったところには切符売り場がなかったの」するとふたたび合唱がはじまった。「あそこにゃ売り場の地所なぞあまっちゃいない。あそこの土地は一インチあたり千ポンド!」
「言い訳はけっこう」車掌が言った。「機関士から買っておかなきゃならんのだ」するとふたたび合唱の声。「汽車を動かす男だよ。なにせ煙だけでもひと吹きあたり千ポンド!」
 アリスは心のなかでつぶやいた。「これじゃあ話したってむだよね」口にはださなかったので、こんどは声はあがらなかったが、おどろいたことにみんなは合唱で考えていたのだった(合唱で考えるというのがどういうことか、察していただけるといいのだが──正直わたしにも全くわからない)。「なにもしゃべらぬほうがまし。ことばはひとことあたり千ポンド!」
「きっと今夜は千ポンドが夢にでてくるでしょうね!」アリスは思った。

『鏡の国のアリス』
ルイス・キャロル 著 ヤン・シュヴァンクマイエル 画 久美里美 訳

 ここだけ読んでも意味がわからんわって感じだが、どこを読んでもこんな感じなので、この引用でいいのだろう。まぁ、それに、あまりにも有名な話だしね。

 それにしても、合唱で考えるとはどういうことやねんと考えているそばから私の脳内で「だってたったの千ポンド!」という大合唱が響くのである。

 どうだろう、これであなたも今夜は千ポンドの夢をみられるだろうか。

 千ポンドの夢ってなんやねん。
 
 なんやねんと思う夢でふと思い出したのが、澁澤龍彦 著『ねむり姫』に出てくる珠名姫。この幼く美しいお姫様は、阿彌陀堂にて阿彌陀と諸菩薩の来迎図を眺めたあと、決して覚めることのない眠りへと落ちていってしまうのである。

夜のように深い昏睡の底で、姫はそのとき深海魚の夢のような夢をみていた。いや、夢かうつつか、姫自身には知りえようはずもなく、姫自身の意識では、自分はただ阿彌陀堂の板の間にすわって物思いにふけっていただけである。

『ねむり姫』 澁澤龍彦 著

 はたして、深海魚はどんな夢をみるというのだ。ゼブラフィッシュの睡眠状態は、人間のレム睡眠とノンレム睡眠のサイクルに似ているという実験結果が報告されていた。(ただし夢をみていると断定位できるものではなかった)。

 ゼブラフィッシュが夢をみるのなら、深海魚も夢をみるのだろうか。

 人は夢をみることでなにを得られるのだろう。脳内で描いた映像だけでは、なにも得られないということを得られるのだろうか。

「そうだそうだ、果樹園を作ろう。新鮮な果実を木からとってすぐ食べることはすばらしいぞ」
 でも、男はなにもしなかった。そして米びつの米をかじった。
 こうしてこの男は、考えてばかりいるうちに、だんだん頭が大きくなっていった。家の中には、もう米も果実もなんにも食べるものがなくなった。それでも男は考えることをやめずに、考え続けた。だんだん男の頭は大きくなって、手足や胴は小さくなっていった。
 とうとう食べるものがなくなると、男は小さくなった自分の足を食べてしまった。

『料理王国』
北大路魯山人 著

 私は考えることすらできない脳みそしか保持していないので、自分の足を食べる日もはやい気がしてきた。

 やはり、脳内会話ではなく、人と話して行動する機会を作らねば。


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