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『はじめまして地球さん、私オレンジジュースです』第五話「何ものかが語る本ものの愛」岩月寧々編

 家を出る寸前まで、電車の中で、そして集合場所であるレンタル会議室のビルの前で、私は携帯を凝視する。見ているのは、みんなの写真。今日会うもぐぐみさん、ショットさん、ゆうせいさん、komaさん。
 私が人の顔を認識する能力が低いことに気づいたのは随分と遅く、高校生になってからだった。中学生までは移動手段は自転車のみで、インドア派な私は出かけることがほとんどなかった。もし出かけたとしても、常に萌音と一緒だった。萌音はクラスの人気者だったので、出先でクラスメイトに会えば向こうから声をかけてくるし、萌音から挨拶をすることがあっても必ず相手の名前を呼ぶので、私はその情報を無意識に頼っていた。だが、高校は萌音と別になり、さらに通学に電車を使用しなければならなかったので、行動範囲が広がった。
 あの日、学校からまっすぐ帰らず途中の駅で下車し、推し漫画家さんのサイン本を求めて大型書店へ向かった。広い店内で目当ての本を探していると、同じクラスの子に似ている人を見かけた。ここではじめて私は不安に襲われた。あの人は、うちのクラスの女子に似ているだけなのか、それとも本人なのか。判断ができない。入学して一ヶ月程度だったが、彼女は隣の席なので毎日挨拶はしていたし、人懐っこい性格の子なのでそれなりに会話もしていた。それなのに、彼女だと断定できなかった。制服の上にパーカーを羽織っていたのでスカートしか見えない。うちの高校はどこにでもあるような紺色のスカートだったのでもしかしたら違う学校の子かもしれないと思うと、難問だった数式にさらに一つ数式を足されたような、そんな焦りが生じていた。もし萌音が同じクラスであの場にいたら、真っ先に声をかけていただろう。そうやって考えると、萌音と一緒にいたことは悪いことばかりではなかったのかもしれない。だが、萌音はいないので自分で判断するしかなかった。私は顔や髪型や体型だけでは「その人である」と判断するには覚束なく、教室と行った特定の場所や制服などといった複数の条件が揃わないと確信が持てないと気がついた。あのとき、クラスメイトに「似ている子」をどれくらい見つめていたのだろう。私の視線に気づいた彼女が怪訝そうに「なんですか?」と尋ねてきた。その声を聞いてやっと人違いだということがわかった。
 あの日から他人とのコミュニケーションを取ることに不安を感じ、次第にクラスメイトと距離をとるようになっていた。そんなとき、萌音から会おうと連絡がきた。萌音は家に遊びに来るように言ってきたが、私はあえて萌音の学校の近くで待ち合わせをしようと言った。萌音と会うときは、いつも私が萌音の家に迎えに行っていた。萌音に顔が似た姉妹がいたらどうだったのかはわからないがあの子は一人っ子だし、さすがにおじさんとおばさんと萌音の区別がつかないなんてことはなかったので、萌音の家に行き玄関を開けてくれた人が萌音かどうか判断に困ったことは一度もなかった。なので、まったく知らない場所で私は萌音を判断できるのか知りたかった。
 結局、萌音の高校の近くの駅の改札口前で待ち合わせをすることにした。萌音の制服姿は見ていたし、数週間前にもあっていたので彼女に驚くべき変化があるとは思えなかった。それでも、駅は利用者が多く、私はたった数分待っていただけで激しい後悔に襲われていた。顔、顔、顔、どれも違うとはわかっているがそれらを個別に判断しなければならないと思うと吐き気すらおぼえた。それでも行き交う人々に目を凝らしながら待っていると、おかっぱ頭のアイドルみたいにかわいらしい子の姿が見えた。おそらく萌音だ、と思った。「おそらく」とは思ったが、クラスメイトのときよりは確信に近いものがあることにやや安心した。さらに次の瞬間「寧々ちゃん」という声が私の耳に飛び込み、萌音だと断定できた。ここで私は、顔では長年付き合いのある萌音の顔すら確信は持てないが、声なら判別できることを知った。
 ただ、声を聞かないといまでも駄目だ。前回のオフ会のとき、家を出る前はみんなの写真を眺めていたのだがそれ以上見ることはなく、今回と同じレンタル会議室が入ったビルまで来てしまった。ビルのエレベーターに乗ろうとすると、先にいた女性が扉を開けて待ってくれていた。やや小走りで中に入り「すみません」と俯きがちに小さな声でお礼を言うと、「いえ」という声で驚き相手の顔を見るとそこでその女性がもぐぐみさんであることがわかった。一瞬驚いた顔をしてしまったのだろう。
「ふふ、考え事中でした?」と微笑まれた。適当に話を合わせたが、あれがもぐぐみさんでなければ気まずい空気が流れていたに違いない。

「今日は大丈夫」
 携帯の画面から写真を閉じると同時に背後から「こんにちは」と声をかけられた。この声はショットさんだ。突然声をかけられたことによる動揺と、みんなの写真を眺めていたところを見られていたかもしれない気まずさからどっと鼓動が速まる。いま振り返ったらきっと顔は赤くなっているだろうが、いつまでも無視するわけにもいかず、目尻を下げ口角を上げ、笑顔をつくって振り返る。
「ああショットさん」さりげなさを装ったが、完全に失敗に終わり声がうわずってしまった。
「ちょっとはやかったかなと思っていたんですが、地球さんがいてくれて安心しました。それにしても、今日はいつもと雰囲気が違うので緊張しますね」
 ニコッと柔らかに微笑む彼は相変わらず爽やかで、服装もシンプルだけど品であり、つまり完璧だった。それに比べて私は、オレンジジュースさんことレンさんに会うということでやや気合が入っており、普段は買わないお高めの店で購入したシャツとロングスカートという着慣れない姿だった。とはいえ、ショットさんはこういう服装の女子と付き合っていそうなイメージだったので見慣れているかと思ったけど、もしかして私の意外な一面に緊張しているのだろうか。なんて考えていると、私の奥深くで閉じ込められていた「恋心」という眠れる獅子が大きな欠伸をした気がした。単純に動揺しているときに声をかけられたことによる「吊り橋効果」かもしれないが。
 元彼と付き合いだした頃、萌音から「寧々ちゃんは愛に生きる人だね」と言われた。私は彼の雰囲気が好きだった。彼の顔をどこまで把握できていたのか、いまとなってはわからない。背が特別高いわけでもなく、どちらかというと痩せている方ではあったがショットさんのように鍛えた体でもなく、髪型も平凡だった。ただ清潔感はあった。とにかくどこをとっても特徴的と言える部分は思いつかず、そんな人はいくらでもいるとしかいまの私には思えない。それでも、彼に私の心が動かされたのは、言葉では言い表せないような独特の雰囲気を持っていたからだと思う。本をよく読む人だったので、自分の意見がすべてではなく、さまざまな思想でこの世界は成り立っていることを知っていたからかもしれない。
 そうやって考えてみると、ショットさんも彼に近いところがある。菜食主義者ではあるがカーニズムを一方的に批判することはなく、ゆうせいさんが同性愛者であることや18禁のBL小説を書いていることもも驚くほどすんなり受け入れていた。はじめてオフ会をしたとき、ゆうせいさんが鶏肉だけを食べないフレキシタリアンであること、そしてゲイであることをカミングアウトしたあとにショットさんが言った言葉に感銘を受けた。
──僕が菜食主義者だと言うと、「なぜ動物はかわいそうって言いながら、植物は平気で食べられるんだ。植物だってかわいそうだろ」と言ってくる人がいるんです。僕は自分が菜食主義なだけで肉を食べる人に反対はしていません。そしてなぜ僕は植物を食べるかというと、何か食べないと生きていけないから。なぜ野菜を選んだかというと、自分で育てて食べられるからです。って、これは僕が好きな格闘家が言っていて、感化されただけなんですけど。彼は庭で野菜を育てていて、自分で収穫しているんですね。でも、家畜は自分で処理ができなかったと言っていた。だから食べないと。この話を聞いたあと、僕は屠殺の場面を動画で見てみたんですが、途中から直視できなかった。そこから、食べるまでの過程で抵抗があることをないことにして食べる、それをやめようと思ったんです。ときどき、自分で捌くなんて残酷なことは絶対しないけどヴィーガンも認めない、みたいな人もいるんですね。自分の主張だけ通して、相手を虐げる。僕はできるだけそういうことをしないように心がけています。同性愛に対しても同じです。以前、同性結婚の認可を訴えるデモがあったとき、道ゆく人が「同性愛者が偉そうに権利を訴えるな。お前たちは隠れて生きてろ」と言っていたんです。その人が結婚しているかどうかは分かりませんが、自分には権利があり、さらに他人の権利を退ける権利すら持っていると思っている。そんなわけはありません。いくら法律で決まっていることだとしても、デモをして権利を訴えることは個人の自由です。だからこそ、女性の参政権が認められたわけですし。
 ここまではっきり自分の選択や行動について話せることに会ったのははじめてだった。
 もし、ショットさんに私は人の顔が判別能力が低い話をしたら、彼は私を受け入れてくれるだろうか。親にすらまだ話したこともない、私の秘密を彼なら否定しないだろうか。ショットさんなら──。
「お酒なんか持って『シンガーの会』に参加する日が来るなんて」ショットさんがすっとエコバッグを持ち上げる。真っ黒なエコバッグの隅には白地に黒のドットのタグがちょこんとついていた。
「いつもと違うって、なんだお酒のことですか」私のことなんかじゃないよね。何を期待していたんだ私は。馬鹿みたい。
「地球さんは前にザクロジュースが好きだと仰っていたので、買っておきましたよ」
 よく憶えているなあと思いつつ、こういう人は間違いなく恋人がいるんだよと変に舞い上ってしまわないように自分に釘を打つ。
「そういえば、地球さんは今回の文学フリマもお手伝いに行かれるんですか?」
「はい。今回はもぐぐみさんも本を出されるって言っていて。いつもお世話になっているから、当日だけでなく準備段階でもお手伝いをさせてもらえたらなって」
「さすがですね」
「え?」
「いや、いつも地球さんのそういう真面目なところ見習わないとなって思っているんですけど。僕はなかなか気が回らないですね」
「そんなことないです! むしろそれは私の台詞です」ショットさんがこんなふうに私を見ていてくれたのは、ちょっと驚きだった。私が好きな飲み物まで憶えていてくたことも。よく考えたらこんなふうに彼と二人だけで話すのははじめてかもしれない。なんて何どきどきしてきているのよ。落ち着くのよ、私。妄想が暴走しないように、会話を続けないと。「ショットさん話もうまいし、人の話を遮ることなく上手に会話に参加できるし、すごくモテるんだろうなあっていつも思っていました」
 言い終わったあとで、あれ、これって告白みたいかなとやや焦ったが、ショットさんは笑顔を崩すことなく、照れた様子も見せなかった。
「モテませんよ。ぜんぜん」そもそもそんなことはまったく気にしていません、と言葉が続きそうな顔。それはすでに恋人がいるから気にしていないのか、モテることに興味がないのか。そもそも私はどうしてこんなにショットさんのことが気になるのか。男性と二人きりで話すのは久しぶりだからだろうか。
 エレベーターの扉を開け、私を先に通してくれるショットさん。動作もスマートだ。
「どうぞ」
「すみません」
 返事の代わりに微笑む彼。いやほんと、絶対モテるわ。頭から足先までさっと視線を流す。彼が持つエコバッグからは、ワインのボトルも見えるがそれらの重さを感じさせないほどに鍛えられた腕。服を着ているとわからないが、半袖のシャツから出た彼の腕にはしっかりと筋肉がついていた。もしかして腹筋も六つに割れているのだろうか。なんてことを考えながら思わずじっと腹部を見つめていると、さすがに視線に耐えられなくなったのか、閉じるボタンを押そうとしていたショットさんがこちらを見てきた。
「何か変なところあります?」訝しげな態度をされてもおかしくない状況だが、コットンフラワーのように柔らかな口調で彼は聞く。これで内心は私の視線が気持ち悪いと思っていたら、ショットさんは俳優か詐欺師だ。
「あっ、いえいえ」私は大袈裟なほどに首を横に振る。
「一瞬服を裏返して着ているのかな、って焦っちゃいました」まったく焦っていた様子を見せないが嘘くさいとも思わせない口調。
「まさか。ショットさんはそんなミスしないでしょ」
「ミスはありますよ。誰だって。それどころか、もっとしっかりしないとって思うことはしょっちゅうですから」
「またまた」
 弾む私たちの会話を二人だけのものに、とばかりにエレベーターの扉が閉まっていく。
「あ、待って待って私も乗ります」
 女性の声が聞こえ、慌ててショットさんが開くボタンを押す。この声、まさか。
「はあ良かった。すみません」
 入ってきたのはKPOPアイドルのように驚くほど細くて長い手足をした美人だった。顔の大きさは私の半分くらいだろうか。オーバーサイズの白いポロシャツとスキニージーンズ、そしてシルバーのスタッズ付きスニーカーは、それはもしかしてルブタン? モデルさんみたいな、こんな人がまさか。
「もしかして」常に笑顔を崩さないショットさんがぽかんと口を開け、目を見開いていた。彼でさえもこんな顔をするのか。私では一生見せてもらうことはないであろう、驚きと感動が混じった顔。「レン、さん?」
「へ?」気怠そうな声。酔っていたときと、二回目のときのちょうど中間くらいの声色だが、間違いなくこの人はそうだ。「あーもしかして、あなたシンガーの会の」
「はい、僕はショットです」
「ああーはいはい」曖昧な返事で頷くレンさん。ショットさんがどんな人だったかを思い出しているのが丸わかりだ。「はじめまして、レンです。今日はよろしくお願いします」レンさんがショットさんの方に頭を下げると、長い髪が光を放ちながらさらさらと彼女の細い体を滑っていった。たったこれだけの動作なのに、私とショットさんは言葉がすぐに出てこず見入ってしまった。って、それは良いのだけど私への挨拶は?
「レンさん、こちらは地球さん」気を遣ってショットさんが私を紹介すると、わっと顔を上げ、大きな瞳をこちらに向けてきた。
「ええー地球さん!? あなたが!? やっと会って謝罪できる! 地球さん、この間は本当にごめんなさい」空気を切る音が聞こえそうな勢いでレンさんはまた頭を下げる。
 その態度は悪くないが、ちょっと待って。私とショットさん、かなり良い雰囲気だと思った──何だったら側から見たら結婚しているくらいに見えているんじゃないかと思っていた──んだけど、あなたからしたらただの居合わせた人たちにしか見えなかったってことなのね。はいはい、すべて私の妄想ですよ。
「待ってまだ心の準備ができてなかったのに。まさか最初に地球さんに会うなんて」
 これだけ綺麗な人にここまで純粋に感動されると、私は動物園のパンダか何かになった気持ちになる。ただここで卑屈な態度を見せてはいけない。ショットさんに大人気ないと思われてしまう。何か気の利いた言葉を言わなければ、そう思ったときにはエレベーターが六階で止まり、扉が開いてしまった。
「着きましたよ」
 ショットさんが先を歩く。さほど長くない廊下の一番奥にある扉が今日の私たちが借りたスペースとなっていた。
「誰かもう来ていますかね」ショットさんはチャイムを鳴らしてみたが部屋に人の気配がなく、デジタルキーに暗証番号を打ち込み扉を開く。
「私、レンタルスペースって初体験」
「僕もこの会ではじめて利用しました」
 私もと言おうとすると扉が開き、「ありがとうございまーす」と軽く頭を下げ真っ先にレンさんが中へ入って行った。すごい軽い態度だなと思ったが、そもそもエレベーターを開けてもらったときの私の「すみません」は違ったかもしれないとも思った。謝ったのでは、ショットさんのスマートな動作が台無しだ。綺麗な人は男性からこういうことをされるのに慣れているから、軽い態度で返せるのだろうけど。
「ありがとうございます」今度はお礼を言い、私もレンさんの後に続く。
「おおーテーブルにホワイトボード。ここで酒を飲むって背徳感があって最高だね」
 そうなんだ。私にはよくわからない感覚だ。
「何だか僕も職場でお酒を飲んじゃう気分です」
「ショットさんの職場ってこんな感じなの?」
「個別の英会話教室なんですけど、ホワイトボードがあって机があって観葉植物があって、さすがにここみたいな椅子じゃなくてソファですけど、まあ似たような感じですね」
「へー英会話講師なんだ。私学生時代にTOEIC受けたけど、散々だったわ」
「テストの結果がすべてじゃないですよ。もぐぐみさんはテストを受けたこともないけど、留学したら喋れるようになったって言っていましたから」
「ああ、もぐぐみさん!」ぱんとレンさんがはしゃぐように手を叩く。「今日は彼女に会うのを楽しみにしていたの。やばい、緊張してきた」レンさんの声がワントーン高くなる。もぐぐみさんが「私に会いたいだけならこのルームへの参加はご遠慮ください」って言っていたの、忘れたのだろうか。
「会う前に一杯ひっかけちゃいます?」小悪魔な笑みをショットさんが浮かべる。彼はこんな少年みたいな雰囲気の人だっただろうか。
「どうしよう。シラフで会いたいけど、飲んだ方が落ち着くかも。お酒の種類って何があります?」驚いたことに、何の遠慮もなくショットさんのバッグの中をレンさんが覗き込んだ。ショットさんとレンさんの距離が触れてしまいそうなほど近くなる。
「ワインとビールと、それから……」
 ショットさんがお酒を取り出していると部屋のチャイムが鳴った。「はーい」と返事をし、私が扉に向かう。お酒で盛り上がっている二人は後に続いては来なかった。ドアを開けると特別美人というわけではないが好印象を与える柔和な空気をまとった女性が立っていた。もぐぐみさんだ。
「地球さん、こんにちは」
「こんにちは。ショットさんと、それからレンさんも来てますよ」
「そうなんですね。komaさんからは遅れるので先に進めておいてと連絡が来ていましたね」「しまった。チャットを見ていなかったです。ごめんなさい」「誰かが確認をすれば良いだけの話なのでお気になさらず。ゆうせいさんはもうすぐ着くって──あら」もぐぐみさんが廊下側に顔を向ける。「すごい、ちょどいいタイミング」どうやらゆうせいさんも到着したようだ。
「こんにちは」
 もぐぐみさんのあとにゆうせいさんが続く。私は扉を閉めてから入ったので、二人がレンさんを見てどんな顔をしたのかはわからなかったが「わあ」っと歓喜の声をあげたのはレンさんの方だった。
「もぐぐみさん!?」
「はい。よく分かりましたね」もぐぐみさんの声、いつもよりも嬉しそうなのは……気のせいだろうか。
「声でわかりますよ。会えてすごく嬉しいです。えっと、あなたは」
「ゆうせいです。よろしくお願いします」誰に対しても丁寧に挨拶をするゆうせいさん。モデルなみの美人を前にしても特に変わった素振りはなかった。彼の反応は私の心を慰めてくれる。
「はじめまして、レンです。わー何か緊張してきたから飲んで良いです?」
 本当に緊張している人は酒なんて飲む余裕すらない、と言いたいところだがもぐぐみさんが「もちろん」と答えてしまったので、私は黙って紙コップやおつまみを出すショットさんの手伝いをすることにした。
「私は日本酒と、おつまみにとチーズみたいなお豆腐を持ってきました」もぐぐみさんが肩からさげていたのはおしゃれなトートバッグかと思ったら、ファスナーを開けるとシルバーの断熱材が見えた。
「チーズみたいなお豆腐? 楽しみ。私もお酒とおつまみ持ってきたんだけど。おつまみは、米ぬかからつくったおかし。低カロリーなのに食べ応えがあっておいしいの」レンさんは自身の体に負けないくらいスリムなバッグからお菓子の袋を取り出す。こんなに細いのにカロリーを気にするんだと思い、カロリーを気にするから細いのかと思い直す。
「私アルコールは持って来なかったんですけど。どうしよう、ごめんなさい」
 いまさらどうしようもないのに私が困った素ぶりを見せるとらゆうせいさんが堂々とコンビニのプライベートブランドの菓子をテーブルに置いた。
「僕もお菓子のみです。でもこれおいしいですよ」
「ああ、それおいしいですよね。私もよく買います。プラントベースですし」もぐぐみさんは言いながらゆうせいさんにペットボトルの紅茶を渡していた。
「へー、コンビニもプラントベース売ってるんだ」興味深そうにレンさんが相槌を打つ。
「最近コンビニでもスーパーでも見かけるようになりましたよね。ちなみに僕もそれ好きでよく買います」ショットさんが言う。
 ゆうせいさんがコンビニのお菓子だけを出してくれたところでややハードルが下がった雰囲気があり、この機を逃すまいと私も持っていた紙袋を開ける。
「わ、私が持ってきたのもプラントベースで。ドーナツなんですけど。近所の個人店がやってるものだから見た目はおしゃれじゃないけど」
 フルーツのソースや、チョコレートでコーティングなんてされていない、無地の紙袋に入った狐色のドーナツを紙ナプキンで挟み、ショットさんが持ってきてくれた皿の上に並べる。
「私、こういうシンプルなドーナツが一番好き」レンさんが言う。そんな細い体で、絶対ドーナツなんて食べないでしょ、と言いたくなったがここはぐっと堪えた。
「食べ物も飲み物も揃ったようですね。地球さん、まずは乾杯をお願いします」もぐぐみさんは場を仕切っているようで、きちんと良い所は私にパスを回してくれる。本当に人としてできすぎだ。
「では、みなさんコップを持っていただきまして、かんぱーい」ザクロジュースの入ったコップを私が突き出すと、みんなも「乾杯」と声を揃える。こういうリーダーっぽいことをさせてもらえたのは学生時代はもちろん、いまの職場でもない。
「さ、まずはみんなで食べながら文フリの話を進めていきますか」
 すっかり気分を良くした私は、椅子に座るとまずはザクロジュースをぐいっと飲み干し、おかわりを自分で注ぐ。私が時折スーパーで買うものよりも遥かにおいしく感じたのは、ショットさんが私のために買ってきてくれたという情報があったからかもしれない。
 私にとっての飲食は、何を食べるかよりもどういう精神状態で誰と食べるかが大きな意味を持つ。どれほど研鑽され愛情を込めて育てられた食材を一流の技術をもったシェフに調理してもらっても、説教をされたり侮蔑の言葉をぶつけられながら食べたら、私はおいしいとは感じられない。それなら、家で好きな映画でも見ながら食べるスーパーで買った人参スティックのほうが何倍もおいしい。何を食べたかよりは、どうしてそれを食べたか、誰と食べたか、食べている間どういう精神状態だったか、これらのどれか一つでも不快なものがあると、幸福な満腹感は得られない。彼と萌音との件のあと、私はあれだけ食べていたというのに、ずっと飢えていた。
「ところでゆうせいさん、新作は順調ですか?」いつも締め切り間際で焦るゆうせいさんにもぐぐみさんがジャブを入れる。
「う、まあまあ、前回よりは順調かな」ゆうせいさんはそう言って毎回文フリ当日に印刷屋から本が届くか届かないかなどと冷や汗をかいているのは、私でさえもよく知っている。
「へー、ゆうせいくんも食にまつわる本を書いているの?」レンさんはおそらく何気なく聞いただけだろう。でも、私は一瞬ヒヤッとした。レンさんにゆうせいさんの恋愛について説明しただろうか──そう考えて、すぐに自己嫌悪に陥った。なぜ、人が人を好きになることに「説明」など必要なのか。私は、馬鹿だ。
「いえ、食についての描写もありますが僕はBL作家なんで」愚昧な私とは違い、ゆうせいさんははっきりと答えていた。
「へーBLかあ。読んだことないや。私レズビアンだし」
 しんと場が静かになる。ショットさんは驚きを隠せていなかったが、もぐぐみさんは眉一つ動かすことはなかった。ゆうせいさんは、小さくすばやく瞬きを繰り返したあと、歓喜による紅潮なのかぽっと頬を染め、「そうなんだ。でもレンさんモテるだろうから、彼女に困ったことなさそう」ととてもゆうせいさんとは思えない俗っぽい言い方をしてきた。意外だった。
「彼女に困ったことはないかな、確かに」
 そうだろうねと全員が頷く。
「えっ、なんでみんな頷くの? 今の彼女がはじめて女性を好きになった相手だから困ったことがないって意味だよ」
 ほおーっとゆうせいさんはため息をつき、「初恋の人とずっと付き合っているってことですか。素敵ですね」と彼の瞳はもはやお花畑に埋もれていた。
「初恋の人? 違う違う。彼女ができたのは初めてだけど、初恋の人は男だし、彼氏はいたことあるよ。ただ今後男とは付き合うことはないかな。もういいやって感じなのよね」
 淡々と語るレンさんの横で、ゆうせいさんが硬直していた。彼を見ていて、こんな瞬間的に人の表情は変わるのか、とある意味恐ろしくなった。つい先ほどまで恍惚とした表情は激流に押し流されたかのようにさっと消え去り、彼の目に残ったのは不信感だった。
「それって」ゆうせいさんの声は怒りで震えているようだった。「男に飽きたから女性と付き合っているって意味ですか?」
「えっ」ゆうせいさんの声色の変化に驚いたレンさんは、彼をまじまじと見つめて暫し考え込む。「飽きたっていうのは違うけど、なぜ男性でなく女性に恋したかってところは、うーん、それね。私も考えたことあるのよ。元カレへの愛がさめたとか嫌いになって別れたわけじゃなかったし、男とはもう付き合いたくないって思ったのは事実だし。でも、どれだけ考えてもいまの彼女が愛しいし、元カレは別れたから元カレではなく自分の感情としても「元」をつけてしまう、過去の人なのよね。私は彼女と付き合うことで自分の中に愛情という感情を生み出すことができているんだと確信したの。だから、彼女と付き合っているんだけど、それってゆうせいくんにとっては何かひっかかるのかな」
「男が駄目だったから、女性にいくなんて、相手に失礼じゃないですか。本物の愛なら、最初から男性を好きになったりしません」
 何がゆうせいさんの癇に障ったのが私にはわからなかった。男性が好きな人はずっと男性だけ好きでないといけないということなのだろうか。
「それってバイセクシャルは認めないってこと?」ややレンさんの口調が早口になる。
「バイセクシャルはもともとどちらも愛せる人なので、その愛は本物です。あなたの場合は男が駄目だったからじゃあ次は女性で、みたいなところが嫌なんですよ。BL小説の設定でもたまにそういうのあるんですね。女性に酷いフラれ方をした男が、ゲイに優しくされて男への愛に目覚める、みたいな。ゲイを女が駄目だったときの妥協案に使うなよって、いらいらするんです」ゆうせいさんの口調が強くなり、もはやレンさんの意見は受け付けない、そんな空気すら醸し出していた。
「それは小説の話でしょ。私は実際彼女を愛してるし、妥協案なんかじゃない」
「では聞きますけど、その人が男性だったらそもそも付き合ってますか?」
「それって、もしあんたの恋人がDVだったら? って聞くのと同じじゃない。それともDVだとわかっていても愛しているなら付き合うべきって言うの?」
「心から愛していたら、そこも許せてしまうと思います。相手のことをすべて包み込む、それが本物の愛です」愛を証明するために、ゆうせいさんなら本当に相手の暴力にも耐えてしまいそうだ。そう思ったら、背筋がぞっとした。この恐怖心は、もしかしたらゆうせいさんなら幼馴染と彼氏が浮気をしても許すべきだと言いそうだったからだ。あなたの愛も偽物だ、そう指を指されそうな気がしていた。浮気をしたうえに非難してきたとしても、許すのが本物の愛だと。
──果たして、愛しているなら何もかも許すべきなのだろうか。私は、結局彼を愛していなかったのだろうか。こんな私は本物の愛を手に入れることができない人間なのだろうか。
「そうねえ」ゆったりとした調子でもぐぐみさんが口を挟む。「昔ね、知人が突然夜中に私のマンションに来たことがあって。開口一番助けてって。顔も体もあざだらけで、ガリガリに痩せ細った体で、同じくらい痩せた赤ちゃんを抱いていた。事情を聞いたら、夫に監禁されていたって。実家も親友の家も夫に把握されているからすぐに連れ戻されるって。だからそこまで親しいわけではない私の家に来たらしいの。もちろん私は好きなだけ家にいて良いと言ったの。でもね、暫くすると彼女が夫のことを心配しはじめて。どうしているだろうとか、自分を見つけられなくておかしな行動に出てしまわないかとか。そうして一ヶ月も経たないうちに、あの人私がいないと駄目だからって、彼の元に帰るって言い出したの。出ていくとき彼女、彼を愛してるってはっきり言っていた。私はそんなの愛じゃないって必死で止めたの。自分と子供のことをもっと大切にしてって。でも、ゆうせいさんなら、それこそが本物の愛ですよって彼女を笑顔で見送る、そういういことですか?」穏やかな口調だが、凄みを感じるもぐぐみさんの言葉。ゆうせいさんは「あっ……」と言ったきり押し黙ってしまった。
 皆の沈黙を破るかのように、入り口のベルが鳴る。返事をして立ち上がるべきなのにすぐに行動できずにいると、「嘘でしょ、みんな帰っちゃった!?」とハイテンションな声が響いてきた。komaさんの声だ。キーに暗証番号を打ち込む電子音のあと、解錠と共に「おーい」と元気の良い声が中に入ってきた。「お、なんだ、みんないるじゃん」
 ああkomaさん、こんにちは。なんて挨拶をしようとしたのに言葉が出なかった。komaさんの顔には、漫画のように丸い紫色の大きな痣が目の周囲をぐるりと囲っていた。まさかkomaさんのパートナーさんも!?
「やっほーってみんなどうしたのよ、私の顔をそんなに見つめて。何かついてる?」
 レンさんがさっとバッグからコンパクトを取り出し、鏡をkomaさんに向ける。
「え、なになにもしかして」鏡を覗き込むkomaさん。「うっわ。想像よりひどいわーこれで電車乗っていたんだ私、やばー」やばいと言いつつも、大爆笑していた。
「komaさん、大丈夫ですか? 私コンビニで氷とか買ってきますね」すっともぐぐみさんが立ち上がろうとすると、「僕が行きますよ」携帯と財布を手にショットさんが部屋をあとにした。
「komaさん、その痣ってもしかして」
 恐る恐る私が口にすると彼女は大きな口を開けて笑ってみせた。
「そうなのよ。もう双子ズがイヤイヤ期でさ。出かけようと思ったら一人が癇癪起こしてギャン泣きするの。仕方ないから宥めようと思って抱っこしようとしたらね、もう一人も泣き出して。しかもおもちゃを手に振り回しながら泣くのよ。で、すごい勢いで私の顔に命中したってわけ、あははははは」
「いやいや、笑って流せるkomaさんすごいです。母の愛は偉大ですね」と私が言うと、「いやいや母の愛って別に偉大でもなんでもないから。母親とはこうやって子供に愛情を注ぐべきだとか、私の子供への愛はこうだとか、そんな語るものじゃないでしょ。もうただただ毎日必死なだけ。愛とはどうだこうだ考えている余裕なんてないよ。将来子供が大きくなって、私がしたことを大切な誰に自分もしてあげたいなって思ってくれたら、母としての私の愛がそこにはあったのかもって思えるかもね」
「komaさん、すごい」感動しつつも横目でゆうせいさんを見ると、何やら考え込んでいる様子だった。ただ、先ほどのような険悪な空気はすっかり消え失せていた。
「いやいや、すごくないってば。だってまた過食期に入っちゃってるし」言われてみると、前回会ったときよりもかなり全体がふっくらとしていた。「そんなことより、そこのモデルみたいな美人さんは」komaさんに視線を向けられ、レンさんはにぱっと白い歯を見せる。
「レンです。よろしくお願いします」
「やっぱりー! レンさんだったか。え、何? レンさんってモデルとか?」
「違います。ただの会社員ですよ」
「そうなの!? こんなスタイルが良い子が会社にいたらびっくりするけどね」
 やはりkomaさんは痩せていることへの憧憬は強い。ただ、レンさんの細さは私からするとやや過剰に見える。食事はきちんと取っているのだろうか。私が持って来たドーナツはもちろん、興味を持った口振りだったチーズのようなお豆腐も、彼女自身が持ってきた米ぬかのお菓子もまったく手をつけていない。
「やばいわ。過食になってる場合じゃないわ。私、ダイエットしなきゃ」
 komaさんのダイエットは、ダイエットどころではなく絶食になってしまう。何とかやめさせないと。
「ダイエットと言えば」言いながらもぐぐみさんが鞄から携帯を取り出す。「最近私の知り合いがスポーツジムの経営をはじめたんですよ。モニターを募集していたので、よかったらみなさん無料体験やってみます? 勧誘とかない代わりに、最後にアンケートを書いてもらうのは必須になってしまいますが」
「スポーツジムかあ。通ってる暇がないんだよね。双子ズがいるからね」
「自宅でできるトレーニングと食事のアドバイスコースもありますよ」
「へーおもしろそうだな。もぐぐみさんと一緒なら行きたいかも」レンさんはかなり乗り気のようだ。
「ゆうせいさんも行ってみます? トレーナーの中には大会で優勝した経験もあるボディービルダーもいて小説の筋肉描写に使えるかもしれませんよ」
「悪くないかも」意外すぎることにゆうせいさんも行く気らしい。
「地球さんもどうです? 食事のアドバイスや健康のために」
 ショットさんも誘ったら来ると言いそうだな、そう考えたと同時に「行きます」と答えてしまっていた。
「じゃあみなさんの都合の良い日を日程調整ツールに入力してください。リンクをチャットに貼っておきますね」
 文フリやレンタル会議室以外でここのメンバーと会う約束をするのははじめてのことだ。レンさんが来て何だか私のルームが変わりつつある。
 この変化が悪い方向に進みませんように、と誰に取っての悪いことかははっきりさせず、私は心の中で祈っていた。


#創作大賞2024
#恋愛小説部門
 

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