小説:故郷 解説

こちらは私の書いた小説「故郷」の解説となっております。民俗学的知識を中心として、私の解釈なども含めつつ解説を進めます。


まず、主人公が旅好きである理由。

日常的に使われるスーパー、散歩ついでに寄っていきそうな社、近所の子供が遊んでいる公園、そういった場所を巡りながら、地元の人間に溶け込んでみる。

彼はこの行動から、故郷を探しているとも言っていい行動をとります。観光が目的ではなく、自分が居て自然と思えるような場所、つまり居場所を求めることが彼の旅の目的です。


なぜ集落に人がいなかったのか。

これは、柳田国男の「遠野物語」に出てくる「マヨイガ」という話がもとになっています。マヨイガとは、東北・関東地方に伝わる、山中の幻の家またのことです。人が生活しているような気配はあるものの、肝心の人間は一向に見当たらないという奇妙な場所で、そこから持ち出したものはその人に富をもたらすとされます。

じゃあ後半、何で人が出てきたんだよ!というところで...

重要なネタバレ この登場人物は全員人間ではありません。

主人公の過去を描かなかった理由でもあります。集落の人間はマヨヒガの住人です。つまり、怪異の類に当てはまります。主人公が集落の住人とも非常に仲良くなったのも、彼が怪異と親和性の高い存在であるからです。

ここからしばらくはマヨイガに関する一考察ですが、如何せん資料が少ないためほとんどが憶測になります。ですが、私はこれを怪異または妖怪の類の住みかとして考えています。

奥の坐敷には火鉢ありて鉄瓶の湯のたぎれるを見たり。
                     遠野物語 六十三 より引用

ここまで生活感があり、かつ物を持ち出すことができているという点から見て「一部の人間には人間に見ることが可能な場所」として考えることができるのではないでしょうか。欲にまみれた人間はマヨイガを探し当てることはできませんでした。その理由として、そもそも山に欲望を持って入る人間は山に対しての敬意を欠いている=山の神にとっても怪異・妖怪にとっても好ましくない存在であるとして拒絶されている、という考えも可能かと考えました。

私としては、彼は妖怪の類であるという前提のもと書きました。しかし何らかの形でそれが人間社会へと溶け込むことがあります。考え得る限りでは、伝承でも記録されている鬼の子などがそれに近いでしょう。同じく柳田国男の「山の人生」十七章「鬼の子の里にも生まれしこと」では、殺して埋めたはずの鬼の子がひょっこりと地面から顔を出した、といった伝承があったとのことです。根本的に人間ではない何かが人間社会に適応した結果が主人公である、として考えています。ここでは、鬼の定義や成り立ちについて深くは解説しません。

ちなみに鬼という存在がどう理解されるべきかということに関しては、日本書紀などの文献に記されている得体の知れぬ「カミ」や「モノ」としての概念を借りています。旧来ではそのようなものであったが、時代が移るにつれ現代の理解に当てはまる「角の生えた狂暴な妖怪」というイメージにすり替わっていったという理解をしています。

さらに知識として、怪異や妖怪の類の根源は大体が山にあります。古くからの山岳信仰などを根拠に、多くの民俗学的伝承では怪異の類は山より来るもの、山に影響されるものとして綴られています。(もちろん例外はあり)そうであれば、マヨヒガに怪異が訪れることができないなどということはないのではないか。そう思い、今回の小説ではこういった解釈の元書かせてもらいました。一個人の解釈として考えていただきたく思います。

さて、そして一番の謎である神官のような人物。これは、山の神そのものです。山の神は民俗学一般にその土地の豊饒をつかさどったりする存在であり、人間の不敬に対して天罰を与え、敬信には相応の恵みをもたらすものとして描かれることが多いです。そしてその姿はの多くは「顔が赤い」ことを一つの特徴として持っています。山の神が神社より去った、それは神がその山から消えたことを意味するわけです。

次に亀の甲羅で作られた首飾りについて。

亀は長寿をつかさどることに加え、その甲羅は金運をも授けるものとしての意味合いもあります。そして亀という日本にの内陸において存在し得ない生物が由来となる物というのは演出に最適であると考えました。


そのほかの要素については、ある程度考察の幅を持たせるためにも積極的には説明しません。もしかすると解説に漏れがあるかもしれないので、民俗学的な意味や理解が必要だと感じた場合は別個Twitterなどで質問していただければ対応します。

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