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「やる気が出ない」と言える相手がいるのって、ありがたい

 「やる気が出ない」ってわざわざ声に出して言わないものよね。
 我が家では、言って空気が悪くなるわけでもないので、言うこと自体は許されている気がする。
 だけど言える環境でも、「言ったところで」と思って結局言わない。やらなきゃならないことが消えるわけでもないものね。
 愚痴を言いながらでもがんばれる時だってあるから、誰かが言うと、ああしょうがないねと言うけれど、だからって何かしてあげられるわけでもない。

 当然、外では言わない。気を許している友人にも言わない。
 それにやる気が出ないなあって困惑は、主に朝だ。
 朝っぱらからイヤな気分にさせるのは申し訳ないものね。
 なので漠然とした「やる気が出ない」は、自重して心の中におさめ、どうにかやらなければならないことをこなしたり、休んだりして過ごす。


 鏡の中のぼんやりした表情を確認し、「やる気が出ない」とげんなりしてしまう日がある。
 いつもなら今日はあれやって、これやって、晩ご飯はああいうメニューにして、と思い浮かぶ。
 調子の良い時はnoteのことだって思い浮かんじゃう。あれもこれも書きたいとか。
 なのに時々やってくる。「やる気が出ない」の日。
 「あれしなきゃ。これもしとかなきゃ」と義務に感じられる一通りを思い浮かべてうんざりする。

 歯を磨く自分を眺めながら、ふと思い出した。
 「やる気が出ない」と、日々言った相手がいたこと。

 大学生の頃。授業もアルバイトもその日はなく、時間がめっちゃ空いているけど、何かをしたいわけでもなく、退屈を持て余して。
 「暇やねんけど、どうしよう。なんもやる気出えへんわあー」
 電話をしたら「私も―」と言葉が返ってくる。
 「暇やー」

 なんてぜいたくな時間なのだろう。夏休みにはダラダラ汗をかきながら、寝そべりながら受話器を持つ。
 「今からドライブ行かへん?」と誘うと「行く行くー」と返ってくる。

 決して近くはない場所に暮らしていたけど、中間地点より、少し私の自宅に近い方の駅まで出てもらい、そこから私の運転で特に目的地のないドライブに出かける。
 あちこち運転しながら喋っていると気が済んで、今度は少し彼女の自宅に近い方の駅で「またね」と別れる。
 別れる頃には「やる気が出ない」なんて気分も忘れていて、彼女との会話をちょっと反すうしながら帰る。

 本当にどこに行っていたんだっけな。
 万博記念公園で梅を見ながら、彼女が用意してくれたいちごを食べたことがあったのは覚えている。
 梅だから2月だった。それ以外の季節は何していたんだろう。どこに行っていたんだろう。
 今ならぐるぐるドライブするより、さっさと目的地を見つけて、そこでゆっくりお茶飲んでいる方が良いけどね。

 彼女とは色々あってうまくいかなくなった。会いたいとももう思えないほどに。
 それでもあの頃の思い出は懐かしく、他の人とは分かち合えない感情を分かち合い、ただダラダラと過ごした。たくさん喋ってたくさん笑って。その瞬間、瞬間のやる気の出なさを言い合う相手なんてそうそういないものだよね。
 あの特有のけだるさと共に思い出すちょっとうらやましい関係。



読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。