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自分の心を守るために気を付ける

 それぞれ人には暮らし方や生き方を、本来は自分で選べる。
 与えられた環境の中でどのように考えて自分が暮らしていくか。

 ネットって自分で守っていたはずの暮らしの中に、ズカズカ踏み込まれてくる感じがありますよね。実際に何か言われたとかでもないのに。ただ何かを読んでいるだけで侵入されたような気になってしまう。

 世の中にはいろんなタイプの人がいる。
 たとえばエネルギーあふれた人と、体力的にも精神的にも低空飛行が合っている人。
 野心あふれた人と、堅実に一日を重ねたい人と、平穏を望む人。
 すぐ動ける人と、受け身な人と、その意味を考える人。考え過ぎてしまう人。
 おおざっぱにカテゴライズしても、その間で少しこっち寄りのカラーかな、あっち寄りの濃さかな、ってあるはずなのに、白黒つけさせられるかのようにハッキリ決めつけられたり、勝手に自分で引っ張られたり。

 それぞれの良さがあるし、どちらかにした方が「いい」わけでもなく、世の中にはそれぞれが必要。



 私はもっと自分が好きだった。なのにネットであれこれ見始めると、どんどん「こんな自分で良いと思っているわけじゃない」と言い聞かせてしまい。気付いたら自分にダメ出しを繰り返しているではないか。
 その度に自分を否定するか、肯定するための言い訳を考えてばかり。noteやnoteとつなげたTwitterからなるべく離れていようと心がけていても、気が付けばまた強い意見の人たちやエネルギッシュな人たちの声の強さにまた疲れる。
 でも「強さ」を感じるのもまた自分。勝手に思っているだけなんだよな。

 先日も、noteでフォロワーをいかに増やすかに苦心している人たちが少なからずいると知った。
 そりゃあ一定数いるのはわかっているし、それもまた関わり方の一つでそれぞれで良い。でも私はそれでその人の価値が決まるような、何かを知ったわけでもないと思って眺めていて。
 それに対して疲れて離れたはずの人たちとまた近づく機会があって。しかも自分からその機会に近づいてしまった。なんならまだ頑張れるぞと思ってしまった。

 エネルギー強い人たちの近くに行くと、あらゆる力を奪われてしまう。なんでなんだろう。
 「読んで」しまうからかな。文字にすると聞き流すとか、気持ちをサッと保護することができなくて、しっかり読んじゃう。思いの強さを感じてしまう。
 ーとか書いているけど真意やその思いの深さまできちんと把握しているわけじゃないよな私。
 この前もnoterさんと「声の調子や表情から受け取る情報って実はすごく多くて、文字だけのやり取りって難しい」と言葉を交わした。
 思いこみや勘違いってきっと多いだろうし、文字だけだとしんどいと思う人でも普段会って喋る間柄なら意外と気が合っていたりするんだろうな。

 なので、これに関しては強く思う。
 自分で守らないといけないなあ。

 「心の領域」。

 誰かのためを思って、そこを無理にがんばって崩さなくて良い。

 実生活で私はそこが揺るがなかったから、ボンヤリ気が利かなくても、忘れっぽかったり失くし物が多くても、理解が遅くても、信用される場面が少なからずあった。私のとりえで好きな部分のはずなのに。
 ネットだとそこがあいまいになって、自分を見失う。定期的に疲労感がひどくなり、揺れる自分を周りに支えてもらう。

 やっとハッキリしてきた自分の、ネットでの弱さに気付いて、「前からの自分で良いんだよー」「見失わないでー」と自分に声をかけるようにしている。


 最近、もっともしんどかった正体の根幹はコレだった。きっかけはそこじゃないけど、ずっと頭にある。そしてそこから派生する、ここでの距離感だとか友達についてのあれこれ。その辺りはまだうまく書けない。
 とりあえず心を守ろうとしている自分の気持ちに感謝。周りの人にしても、自分にしても、私を大切にする気持ちに目を向けよう。
 ちょっぴりね。人間不信になりそうになるの。信じられる人が良い。自分を好きでいたい。



読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。