見出し画像

なくなっちゃえば良いのに、と思うこともある自分のHSPの部分

 自分のHSP(highly sensitive person)についてと、今回は、HSS(high sensation seeking)、HNS(high novelty seeking)についても少し。HSS、HNSは、刺激追求や新奇追究といったタイプで、HSPの中にも併せ持った人たちがいるという。
 とても簡略的に表現してしまうと、刺激や好奇心を求めてしまう衝動的な部分のある人たちのことらしい。

 人間関係を築く上で、好奇心が強かったり、えいや! と頑張って動いたりした後、やっぱりダメだとやめた時に信用を失ったりすることがあり、私にもその傾向があるのではと疑ったことがある。実際、周りからはそのような印象はあるのかもしれない。
 でもその指摘を受けた時に、自分自身がそうであるかどうかより、そうやって私が信用を失っているのではないかと、とてもショックだった。

 そこで、HSSやHNSについても改めて調べてチェックしてみた。
 でも。
 やっぱりそうではない気がする。HSPのチェック項目を見た時に、もうこれ私のことじゃない? と恥ずかしくさえなったことを思い返すと、「うーん、1つ2つくらいならそういう部分もあるのかな……??」くらいでは私の中では当てはまらないことになる。

 では私は、何故こんなに人なつこく、物事を知ることに好奇心が強く、多少、衝動的に見えてしまうところがあるのか。

 一つは、相手の気持ちに応えたいと、強く思い過ぎてしまうからだと思う。さらに、無邪気なところを、自分で解決しきっていないことがきっと問題なのだと思う。

 結局どちらもHSPの特徴だ。性格的なものに関して言えば、私は特にその部分が強く出てしまうようだ。もちろん、どこが強く出るかは人によって違うので、HSPが皆同じ性格、同じ傾向なわけではない。

 私には小さなことなのに、強くトラウマとして残ってしまっていることがあって、それを数年前にようやくある程度を克服した。
 でも数年前に克服と言っても、本当に克服できることなんていつなんだろう。人の心は簡単に揺れてしまう。子供の成長は「らせん階段」と言い聞かせてきたけど、自分だってまだ、大人になってからもそうだ。人ってそういうものかもしれない。一直線の階段なんてないのかも。

 そのトラウマは、私が持って生まれた無邪気さから来ていた。子供だから無邪気なのは当たり前かもしれないが、親に言わせても「アナタは格別に無邪気でそこが可愛くて仕方なかった」と、その部分を大事にされてきたくらい、そこが際立っていたようだ。その親としての気持ちは、私も息子を持ってみてよくわかる。
 でも息子が今、無邪気さをどのように持ち合わせているのかは、友達と話しているところを見ないとわからないくらい、家庭ではそれほど無邪気だと感じない。言葉のやり取りの素直さはとても良いところだが、そこは夫もそうだ。
 夫はHSPではない。息子もあまりその要素はなさそうだ。それでも幼い頃の息子のそういう部分はとても大切にした。それ以上に他の部分で宝物だなと思った部分がたくさんあった。
 そして私自身は無邪気なところを失わないまま育ってしまった。やはり持って生まれたものだったのかもしれない。

 何故そういった部分がトラウマになったのかと言えば、母いはく、これを妬ましく思う人はいたようで、私はそういった人たちに、何度も何度もそこを「悪い部分だ」と、刷り込まれていた時期があったのだ。無邪気さ故に、憎らしく思われることってあるだろう。そしてそういった人たちの指摘によって、ハッと自分の無邪気なところを気づかされる。まだ幼いから泣いてしまう。泣くと「泣いたら済むと思うなよ。お前のせいなのに(そのせいで怒っているのに)」と言われる。泣くのもまた私のせいだった。

 こうやって「無邪気」を40年以上、「自分の‘とても’ダメなところ」だと思って暮らしてきた。良いところだよと言ってくれる優しい友人はいるけれど、自分では持て余してしまう。相手にはやはり相手の生活、性格、色々あって、この無邪気さを受け止められるばかりではない。そして「良いようには思っていないんだ」と気づくと、とても自分を責めてしまう。

 もういやだ、こんなところ、なくなってしまえば良いのにと思う。


 ただ、トラウマの克服の終盤で、「そこからは相手の問題」と実感するようにはなれた。

 私が相手の気持ちを抱え込むことはない。
 相手の機嫌が悪くなったとしても、うっとうしくなられたとしても、その気持ちは相手が消化すること。もし無邪気さが相手の気持ちを刺激したとしたら、相性がイマイチ良くないことに気づかなければいけない。
 何故なら、50年近く、自分で消しきれないところだから。
 もうこれを隠し通せるわけではないからだ。

 しかも相手が親しくなりたい人であればあるほど、警戒心が弱くなるからそういった部分は簡単に漏れるようになってしまう。そこで相性が悪いのなら、妥協点を考えれば良い。そうやってほんの少し、客観的に考えられるようにもなっている。考えられる分だけ、らせん階段を上がることができているのかもしれない。

 

 人なつこいところも、無邪気さから来ていると思う。その人を知りたい好奇心と。

 もし衝動的に見える時があるのなら、それは何とかしたい気持ちが強い時だ。自分に対してや相手に対して、このまま放っておくと後悔するだろうと思ったら行動を起こす。
 行動が起こせるのは、若くてHSPの要素が薄くなった一時期、行動できていたことがあったからだ。その経験が自分を勇気づけている。あの頃あんなに動けたんだからできるはず、と気合を入れて思い切って行動している。衝動的に見えている時もあるのかもしれないが、相当頑張っている。本当は静かに暮らしたいと願っている。平穏無事に。そしてできるだけ変化なく。でもHSPの特徴である正義感が強いこともそれはそれで私を動かしている。
 なんとかしてあげたいというお節介なところもあるだろう。

 でも結局HSPだから苦手なことや怖いことが多く、途中で自分を脅かすようなことがあると、あっという間にひるんでしまう。

 私は刺激的な生活を好んでいない。いつもと同じ場所に買い物に行き、よく見知っているレイアウトのショッピングセンターを楽しみ、同じ物を食べて、それが自分の心に平穏を与えるし、それがとてもリラックスできることなのだ。

 一人でアメリカニュージャージーに行き、暮らし始めることができたではないかと、その行動力は自分で自信になったけれど、あれは自分が過去住んだことがある場所だからできたのだと思う。そしてそこに親しい友人がいたからできたことなのだ。嬉しかったことは結局、昔食べた物を口にすることができた時や、昔大好きだった場所に行った時だ。

 新しい場所に行く時、新しい物を食べる時、それはリラックスできるような大好きな人が一緒であれば、が大前提で、楽しいながらもやはり私には疲れも伴う冒険だ。

 私はやっぱりHCCではない。

 そしてこういった無邪気や好奇心や正義感、相手の期待に応えようと思う気持ちが強すぎるなど、自分の性分のために、誤解されたり人の信用を失ったりしているとしたら、本当に残念で辛い。無邪気さを受け入れて、自分を乗り越えられたと思っていたけど、そんな風に思われているとしたら、まだまだ道のりは長そうだ。
 その道のりは「相手との距離感」や「自分を調整」していくことでより良いものになるのだろうか。当たり前だけど、今でも、いや誰でも自分が傷つくのは怖いしイヤなものだ。ただ、好奇心を満たすために、これからも何度かこういったことは繰り返されるだろう。その時にはらせん階段を一周でも二周でも良いから上がっていたい。

 受け入れて、人と擦り合わせ、妥協点を見つけ出していく作業は、年を重ねてもきっとこの先もあるんだなあ。

#エッセイ #HSP #HCC #無邪気 #好奇心 #信用

読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。