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勤務を続けること57年、ようやくの「お疲れさま」~父とのこれまで~

 頑固で芯の強いところはあるようだけど、私にとっては穏やかで優しく、品が良くて、面白い父親。時々感傷的になると、娘としては面倒くさいけど、ちょっとした情けなくて惨めな経験を、いかに面白おかしく語るかに心を砕く。おかげで、孫たちの人気者だ。

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 幼少期の頃、足の甲の上に乗せてもらって歩くのが好きだった。「お馬さんやって!」と父を四つん這いにさせ、私がまたがって家じゅう歩かせたものだった。ベッドの布団を整える時も父がフザけるので、掛布団で遊んでもらいながらキャッキャと楽しんだ。

 夜、兄や私がちゃんと寝ているかどうかを確認するのは父の役割だった。少し空いて並んだベッドで、起きているとついふざけ過ぎる私たち兄妹だったのだ。
 父はひたすらじっとベッドの横に立つ。「そろそろ部屋を出て行ったかな」と目を開けると、まだ父の太もも部分が見える。ま、まだ立っている! ……慌てて目を閉じる。そうやって私は気をつけて横を向いているのだが、兄は仰向けで確認していたそうで、よくバレていた。目が合うと父は「ンッフッフ!!(まだ寝ていないのがバレちゃったね。)早く寝るんだよ」と笑う。

 外出する時は、「良いわね、行くワヨ!」とモモレンジャーのマネをして車を発進させる。車を降りると抱っこか肩車。段々と「重くなってきたから勘弁して」と言われるのだけど。

 映画館にも時々連れて行ってくれた。兄や私の映画好きは、多分父の影響が大きいのだろう。

 小学生になって帰国してからは、あまり遊ぶ機会はなくなった。ただ近くのゴルフ場へ出入りしやすく、そこへ何度もセミ捕りに行った。セミを見つけると「シー!」と兄と私が静かになったのを確認し、気配を消すようにして木の前に立つ。そこからものすごくゆっくり、セミに手をかぶせに行く。そんなにゆっくりだとセミに逃げられちゃう! 焦れていると、セミが飛んでいく。「ほらー!!」絶対わざとやってる! と兄も私も笑った。でも成功すると「ね? ちゃんと捕れるんだよ」と得意げだった。

 学校のグランドに遊びに行くのにも付き合ってくれた。私が遊具で遊ぶのを見守ったり、一緒に鉄棒をしたり。
 中学や高校に通うようになってからも。「キャッチボールしたい」と言うと、一緒に早起きし、近所の学校のグランドに付き合ってくれる。甲子園球場への野球観戦もよくついてきてくれた。時には映画館にも。ベッタリではなかったけれど、友達が言うように父を嫌いだと思ったことはなく、又、「お父さんみたいな人と結婚したい」と思ったことも、物心ついてからはなかった。私は父よりもっとハッキリ気持ちを言葉で表現する人が良い。多分それは、帰国子女のせいもあるのだろう。

 私が大学生の頃、父は単身赴任になった。金曜の夜に父が帰ってくると「もう帰ってきたの?」と面倒くさそうな顔を向けてしまっていた。嫌いじゃなくても、部屋をちらりとでものぞかれるのは、当然中学生の頃からイヤだったし、頭を撫でられるのもいやがった。私が唯一、父に申し訳ないなあと思っている過去の言動。仕方ないお年頃とは言え。
 そしてそんな風な私でも、父は変わらずいつでもウェルカムな姿勢を貫いてくれた。

 私が働き始めてからは、以前より一緒に過ごす時間を意識的に作るように心掛けた。散歩や買い物など。兄はもう独立していたので、両親と3人で。家では、好きだと本人が主張する昔の映画ビデオを流し、座椅子に埋もれるようにして昼寝している姿も思い出す。「寝てるじゃないのよ」とツッコミを入れると、「いや、ちょっと瞑想しているんだ」と寝起きの声でンフフと笑い、座り直しながら、ズレた眼鏡を戻す。

 私が幼少期から大人になるまでの、父との思い出をこうやって羅列していくと、父らしさが全面に出る。すっとぼけていて愛嬌があり、温かい。私が父の愛情をまったく疑わないまま成長していけたのは、幸せだったと思う。


 結婚する彼ができた時は、「かせみの良さをわかってくれる人がいて良かったよね」と母に言ったらしい。娘の将来のダンナを、そんな風な気持ちで歓迎してくれて嬉しかった。

 挙式では、両親ともニューヨークまで来てもらった。久々の再会を果たした時、父はたくさんの句を詠んでくれた。昔勤めていた場所だから、余計に思い入れも強かったろう。旅のこと、母のこと、すべてを含めて74首。その中の私に関する句を幾つか。

カフェテラス ビルの高さに星が冴え 白いテーブル 妻娘(さいし)の笑顔

 教会の場所やメイク、セットの都合で、前夜から両親が泊まるホテルの部屋で一泊させてもらう。

薄い陽は ビルの壁映し 眠る娘に まだあどけなき 嫁ぐ日の朝
ヘアメイク 純白のドレス 愛くるし これが我が娘の 26年目の夏

 教会の中のバージンロードで

思い出を 大切にする君となら 一歩一歩 押し花にして
大好きな 君と思い出かみしめて なぜか急いだバージンロード
両側の 親の思いを背に受けて 二人ではっきり誓いの言葉

 そしてニューヨークでの別れ

さようなら 乾いた声のホテル前 君とこの次 いつ会えるのか
ミレニウム(建物の名前です)かわいた音で遠ざかる テールランプを目に焼きつけて

 今もこの74首の手紙を読むと、胸がいっぱいになって、途中から字が揺れて見えてくる。



 帰国して、私に子供ができて、それから父方の祖母が亡くなった。直後、父の弟が亡くなった。

 父方の祖母は、多くの人にお琴や三味線を教えていた時期があったけど、少々心が揺れやすい人だった。でも会話をすると頭が柔軟でどんな話もついてきた。当時若い私たちの話でも、「へえ~」と興味深く耳を傾けては、自分の言葉で返事をしてくれた。しっかりと聞いてくれている実感があったので、話していて楽しかった。

 父の弟は、精神的に少し大変だった人で、家族中、親戚中、皆が心配していた。幼少期、戦争で疎開した先で、皆に可愛がられるために気を配り、要領よく振る舞うタイプ。そこでは親せきたちに好かれていたらしい。

 それに引きかえ、要領の悪い父は特別には可愛がられなかったと聞く。父の傷ついた思い出のようだけど、好かれるように気を遣っていた弟は、本当は母親の愛情に飢えていた。母親は弟である彼を猫かわいがりしていたけれど、おそらく彼の求める愛情とは違ったのだろう。段々と精神を病んでいってしまった。ほとんど働かず、ひたすら自分の両親の面倒だけを見て、ケガと内臓疾患とで入院。ベッドに縛り付けられた弟を見舞いに行くと、涙を流していた、と父は静かに淡々と教えてくれた。

 私は実はこの父の弟に、セクシャルハラスメントめいたものを何度かされたことがある。強い恐怖心はあったけど、彼の人生を思うと胸が詰まる。彼が一度でも、生きていて幸せだなと思った瞬間はあっただろうか。

 その後、父の兄、父の父親が順番に亡くなっていった。

 父の兄は、私はあまり関わりがなかったのだけれど、結婚してから父とよく比べられたらしい。おっとりした父はとぼけていたけど、父の兄は度々自分たちの両親に怒りを向けていたそうだ。いくつになっても両親の愛情を確認したいものなんだなあと思ったものだった。
 それでも父の兄は、両親の面倒を率先して見てくれていたようだし、父の弟についても同じく。父とは子供の頃、よくふざけて遊んだらしく、その思い出話のいくつかは、私も記憶にある。

 父の父親は、100歳を超えたところだった。阪神タイガースが大好きで、ラジオをかけっぱなしにし、「今年は誰それが調子いい」だの、ずっと選手の話をしていた。小さな仏像をたくさん彫り、本をよく読んでいたようだ。でもヘルパーさんにいくら注意されても、ポケットにこっそり台所のパンをしのばせる。ちょっと可愛い祖父だった。

 父の父親が亡くなった時、もう家族は父だけだったので、喪主は父が務めた。それまではずっと父親であった祖父、或いは父の兄が喪主をしていたけれど、父の父親の喪主をする人は他に残っていなかった。

 父は父らしく、冗談を交えながら挨拶を始めた。でも途中で泣き声になってしまった。声がぶるぶる震え、ああお父さんが泣いちゃう。と思ったけど、すぐに父は持ち直して、いつもの声に戻り、また冗談を言って皆を笑わせて挨拶を終えた。

 何週間か経って、落ち着いたかなと思った頃のある日。
 運転していると、急に父を思い出した。おばあちゃんが亡くなって、二人のおじさんも亡くなって、おじいちゃんも亡くなって、お父さん一人になったんだ。

 突然そう思った。

 自分が育った家族で一人のこされるってどんな気持ちだろう。私のお父さんとお母さんと兄が亡くなったとしたら。もし私がその立場になったら。私はどんな気持ちになるのかな。

 お父さんにメール書こう。

 そう思って
 「お父さんの、父親も母親もお兄さんも弟もみんないなくなっちゃったね。一人になっちゃったね。突然そう気が付いたよ」と伝えた。

 普段、照れ屋の父。お互いにフザけてばかりでそんなこと話さないから、何て返ってくるかな。どうしたのと思うかな。ちょっとだけ返事が心配だった。

 すると、

 「良いんだよ。お父さんには、○○(私の母)がいて、お兄ちゃんがいて、かせみがいて、その四人で作った楽しい思い出がたくさんある。この四人で家族を作れたからそれで充分幸せなんだ」

 と返事が来た。

 そうだった。父はそういう人だった。

 そして、その考え方を私も受け継ごうと静かに強く思った。
 

 79歳の父。大手商社に勤め、大出世などしなかったけれど、子供たちに文句も言わず、地道に働き続けた。定年退職してから、誠実で堅実な人柄のために、やはり輸出入に関わる会社に採用され、今も週に数回出勤している。何度も辞めようとしては引き留められてきた。

 いよいよ今年度いっぱいで退職すると決まったらしい。

 私にとっての父の思い出は、あまり仕事とつながらないけど、父にとっては人生の大半を占めていただろう。コツコツ積み重ねてきた本人としては、きっと寂しいに違いない。

 でもそろそろ身体が心配だ。風邪をひきやすくなったし、一度ひくと長引くようになった。
 心の張りをなくさないために、日常の中にささやかで良いから好きなことや面白いこと、今からでも見つけてね。ゆっくりしてからも、お母さんと心身ともに健やかに過ごしてほしい。また会いに行くからね。

 長年の勤務、お疲れ様でした。


#エッセイ #父 #思い出 #お疲れさま #教養のエチュード賞

読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。