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「違う」の意味を知っているのは、大切なことなんだ

 小学生時代、いじめられ、でもいじめる側に回らされたりするのもイヤで、一人でいるのを選んでいた。そんな私にとって、中高一貫校の女子校は、毎日が楽しくて仕方ない場所。
 女子校って、通ったことのない人たちにどのように想像されているのかわからないけれど、強烈なマウンティングがなくて、グループの境界線も薄くて、お互いに干渉し合わなくて。生ぬるいのかな。でも平和でとても快適。

 他の大学への受験をしなければ、ほぼそのままその大学に上がる。
 
 ところが大学に入ってみると、友人たちとは学科やクラスでバラバラ。最も親しい二人はそれぞれ別の大学。特別やってみたい学問でもない。途方に暮れてしまった。中高は楽しかったのに。先生たちにも会いたいなあ。そんな風に思ってばかりいた。
 毎日がつまらなくなっていき、授業もいい加減な態度でしか受けず。何で私はこの大学に来てるんだろう。

 そんなダラダラとした生活に慣れていったすごく残念な私。2年生になるとますます。希望なんてなあんにもなかった。この先どうしたら良いのかも考えていなかった。バブル崩壊し始めた頃。それでも周りの人たちみたいに何となくどこかに就職して働くんだと思っていた。

 その日は、絵本についての講義をしてくれるらしいと、初めて受けてみた授業「英米児童文学」。
 いつのものように、他の授業で出された課題でもしようと、別の授業のノートを広げ、席についた。漠然と過ごす「どうしようもない日々」を自覚しながら。

 そして授業が始まる。

 「あなたたちは、何故この大学に来たの? 強い目的でもあるの? 何でこの授業取ってるの? 何となく受けているんなら、せっかくの時間を無駄にするんじゃありませんよ。この授業だってあなたたちにとってそんなに大事じゃないかもしれない。好きなことを見つけなさい。何だって良いんです。時間がない? 親の面倒や仕事もある? ウウン。大学に通っている以上、その立場なら自由にできる時間は、私たちの年齢や立場の人間よりずっとあるんです。何でも良いからやってみなさい。行動して挑戦しなさい」

 女子大でのほんとした態度、やる気のない表情に先生は気が付いている。
 結局その授業の間中、私は他の授業の教科書やノートに目をやる瞬間もなく、先生の話をずっと聴いた。


 それから毎回、先生の授業を楽しみにし、先生の読んでくれる絵本や子供の小説の一部に耳を傾けた。英米児童文学の授業ではあったが、先生の読んでくれる本は、訳された本が多かったので、ほとんどが日本語。時々英語。そして度々日本の作家さんの絵本も当たり前に読んでくれた。小さな先生は高くて可愛らしい声で、そしてとっても温かな雰囲気で読む。広い講義室で。

 授業では、たくさんの疑問や質問を投げかけてきた。「こんな書き方していますね」「この絵(或いはフレーズ)よく出てくるでしょう?」「こんなところも気になるわねえ」などと言って注目させ、いつもその辺でぽんと放り出された。結論を言わずにニッコリと皆の目を見渡してその話を終える。結論も、先生の考えも言わない。

 先生は何を伝えようとしているのか。知りたくて、先生の勧める本は全部メモして全部読んだ。

 3年生からは、当然その先生のゼミを取りに行った。
 
 2年生の講義室よりずっと小さな部屋で、先生の声や息遣いを感じながら授業を受けるのが楽しみでならなかった。

 卒論で取り上げた本は、マーガレット・マーヒーの「足音がやってくる」。
 マーガレット・マーヒーは、「魔法」を個性として扱った作品が多い。たくさんの話に出てくる継母も、話によく出てくる意地悪な人ではなく、ごくありふれた人で、悩み、迷い、そして愛情にあふれている。「足音がやってくる」では、魔法を「金色にキラキラ光る大切な部分」と表現していた。隠さずに暮らしなさいと。
 
 それを私は先生からのメッセージと受け取った。

 先生と出会うまで気づかなかった、自分の隠れた部分が表に出てきて意識的になった。
 帰国子女として暮らしてきた学生時代を振り返り、何故辛かったのか。何故その感情を押し込め、離人症みたいな症状を当たり前みたいにして送らなければならなかったのか。初めてきちんと向き合った。


 7歳になろうとする幼い私が一体なにを考えていたのか。


 それは「私の暮らす世界での普通」とは何か、だった。


 「一人一人の個性」とは何か。「家庭での個人の存在」とは何か。

***

 帰国してから15年近く、私は自分の宝を自覚しながらも押し込めて暮らさなければならなかった。
 ある立場であるなら。ある肩書であるなら。何歳くらいであるなら。国籍がどこであるなら。帰国子女であるなら。英語が(当時)話せるなら。転校生であるなら。いじめられた経験があるのなら。妹なら。女の子なら。

 「○○であるなら、○△である」。

 その固定観念が苦しかった。大嫌いだった。ずっと。十把ひとからげにして一括りにした物の見方に強い抵抗を感じ、傷つき、腹を立てた。
 人は一人ひとり違う。私はあなたと違う。私はあの人とも違う。それは家族間でもそう。どんなに似ていても。同じ場面で泣いても。心を動かされたのは間違いなくても、心をどのように動かされたのかは違う。

 でも、帰国して入るクラスの扉を開けたあの瞬間から始まった離人症のような症状。私はそこにいる皆のように振舞わなければとどんどん圧迫されるような気持ちになった。何度も目をこすった。どうやったらこの目の前の膜が取れるのだろうかと。

 髪の毛の色が皆ほぼ同じ。皆が真顔で静かにこちらを向いている。持ち物を揃えなければならない。

 傘一つとっても。ちょっと変わった傘をさしていたら、男子はからかい、からかわなくても「何故?」とやたらに聞いてきて、女子は湿っぽい目線を送ってきた。大好きな傘を持ってはいけないのだと知った。

 絵の雰囲気は皆似ていた。同じような角度で同じような色を使って、同じような絵を描かなければならないらしい。

 色鉛筆の塗り方まで。周りを縁取り、中を薄く伸ばすように塗るのだと教えられた。先生にもクラスメイトにも。そうするのだと。そうしないで力いっぱい塗ると汚いのだと。

 歌を歌うと、高い音は裏声でも良いから、キレイな声でないといけないらしかった。大好きな歌をがなりたててはいけない。

 並ぶ時は背の順に行儀良く。

 今でも当時を思い出すと苦しくなってきて、少し息切れがするようだ。

 息子にも伸び伸び過ごしてほしくて努力したけれど、結局息子の通う小学校教育で、私はこの息苦しさを再体験してしまった。

***

 ニュージャージーにいた時、我が家の下には大家さんが住んでいて、中国人一家だった。長女のダンナさんは白人のアメリカ人。隣に住んでいたのはユダヤ系アメリカ人。韓国人の友達もできたしメキシコ系のアメリカ人とも仲良くなった。
 そんなバラバラの家庭環境から来た私たちが集まる。保育園でも幼稚園でも学校でも。意見を言わなければ、先生にすら置いてけぼりにされる。だから自己主張をした。音楽の授業では、曲に乗せて一人一人が自由に踊る。没頭して独自の踊りを表現する子が褒められた。絵も少しでも誰かのをヒントにすると「真似してる!」と皆に聞こえるように大きな声で言われ、やはり周りにバカにされた。

 2年生になる頃には、私らしさは主張できるようになった。それを大切に表現していかなければそこで生きていけなかったし、それが自然になっていった。でも、自分の中にあるものを表現し主張する。それは大切にしたい部分だと私は確かに意識していた。

***

 帰国すると真逆の世界が目の前にあった。

 私は自分の主張や表現を、ダメな所だと思うようにした。強く否定したくないし、できない。だからとにかく奥へ押し込めた。日々、押し込め「続けた」。


 それまで自分で大事に思っていた部分を押し込める作業の連続が、7歳や8歳の私にとっていかに過酷だったかは、大学のその先生に出会ってからようやく気付く。

 先生の勧める本の数々で気づいた。「私には宝があったはずだ」。それを以前は表現し、主張できていたはず。その宝が何だったのか。

 それは、「一人一人が違う意味を、骨身に染みて知っている」。

 これってすごいかもしれない。だってそれって、「考える力」だから。一人一人が違う。じゃあこの人はどうなの、って人と向き合うのは、結果傷つく時もあれど考える力なのだ。考える力は、人や物を知ろうとする力だ。

 札幌時代、ほんの2か月弱、急な事情で人に頼まれ、インターナショナルスクールで子供たちと向き合った経験がある。
 日本語の授業。カリキュラムもない。ポンとそこに投げ込まれて「どうぞご自由に」と言われた。そこで中学生くらいの生徒たちの「僕たち、私たち、日本語できないから」と、お互いを自虐的に笑いながら、ふわふわ馴れ合う態度が気になった。

 文章を書いてもらった。
 そして、「自分たちのルーツを周りの人に聞いて知って下さい」。
 これを私の授業のテーマとした。

 適当なレポートを書いた子から熱心に取り組んで書いた子まで、どれも面白かった。皆が皆、バラバラな形態で、バラバラに書いてくれたのに、ほぼ一人残らず、「よく知らなかった」と書いていたからだ。自分たちの両親や祖父母と話してルーツを知って、何かしら感じたのを知った。

 ガチガチに「信念」にかたまりたくないし人に押し付けたくないのだけど、これってほぼ無意識に、私自身の生きる信念なのだ。
 辞める時に皆が寄せるメッセージにこう書いてくれた子がいた。

「先生は、私が知っている日本人の中で、‘違う’の本当の意味を知っている初めての大人です」


 正直に言えば、今も「正しく」は説明はできない。

 でもそれは、私の知っている狭い世界の話ではない。「違う」ってのは、私の感覚であり、思考力が表面化したものだ。
 何でもかんでも「違う」を受け入れるわけではない。

 「‘違う’がわからないところーが、私と違うタイプなんだな」と認め、受け入れられる度量は私にはない。
 
 「違い」の中の何が大切か。どこが違うのが私の考えを左右するのか。
 何かが違うのは、私にとってどれほど大きな意味をもたらすのか。

 その「違い」はそんなに私にとって問題ではないなら、受け入れて尊重し合いたい部分。そこは違うけど、アナタと私の間で左右するものではないとして。
 でも、その「違い」は私にとってしんどいなら、それを受け入れられるわけではない。

 そこを考える力が、「違いを知る」意味だと思うのだ。

 もちろん相手のあることだから、相手がその違いを受け入れられなければ、私が「問題ない」と思っていてもうまくいかない。そこはもうどうしようもない。相性として合うか合わないかだけになる。


 大学の先生に私は救われた。ずっと押し込めていた宝をほじくり出してくれた。自分自身で、その考え方を大切にしなければならないと気付いた。

 「周りの人たちが皆同じ、って気持ち悪い」と思いながら暮らしていた。それを表に出さないよう皆に埋もれてボンヤリ暮らすようになっていたけれど、その先生が「あなたの心にある宝、大切にしなさいよ」と教えてくれた。それは「違い」の本質を知っていること。そしてそれは考える力。

 生徒と向き合い、さらにそれが伝わった子がいた。

 大学の先生からのバトンを、あの時、あの子に渡せたのだと思った。

 ニュージャージーに一度戻ろう、と思い始めたきっかけになった先生。 
 「尊敬」の気持ちを身近に初めて感じた先生。
 大好きな先生。
 

 すぐには見つからなかったけれど、先生のおかげでたくさんの本と出会い、個性について考え、家族について考え、教育について考えた。
 つまらなかった大学生活が、自由に考えを広げられたために、一気に輝いて日々を楽しいものになった。

 先生、これからもこの考え方をつないでいきたいと思っています。


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読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。