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世界でたった一人のアナタで、たった一人の私~母の月によせて~

 このご時世で、両親が祖母に会えなくなっている。
 なんて、この後つらつら思いを書いていたら、祖母が亡くなってしまった。
 ここ数か月、ずいぶん弱っていると聞いていたので、覚悟や動揺は少し前からあった。

 母と電話で話している時。
 「祖母が何かと忘れる」話をしていた。夫だった祖父を忘れている。母が度々訪ねているのを忘れる。自分がついこの前ケガした事実を忘れる。そのうち自分の名前も忘れてしまった。
 「私のこと、お姉さんて呼んだりする」も、母は前から言っていた。時々娘を思い出す。私や私の息子の写真を見せると、覚えている。でも写真を見た事実は、しばらく後には忘れる。
 話を聞いているうちに、可笑しくなってきてしまう。「あんなに言ってたのに、もうどうでも良いのかしら」「私のことも忘れちゃって~」「娘をなんと思ってるのかー」。母が言い、二人でひとしきり笑うと、「でも、お母さんもそうなるかもしれないわ」と言った。

 「……。」

 母が、私の顔を見て「誰かしら」と思う表情を一瞬想像してしまった。

 悲しい。

 「悲しいね」
 と言った声が思わず震えてしまった。
 「本当ね。でも覚悟しておいてね」
 笑う母の声も少し揺れている。
 こんな風に、祖母の「忘れてるのよ~」って笑っている時間も忘れちゃうかもしれない。胸がギュッと締め付けられる。

***

 今年は特別だから、母の日に遅れたって良いように「母の月」で良い、と目にした。
 父については、度々ここで書いてきたので、これを機会に、母についても書いておきたい。

***


 幼少期、母を怖いと思っていたし、私は兄と違い、嫌われているのだと思い込んでいた。

 しつけに厳しい母。ピアノも母に教わっていたけど、厳しくてよく泣いた。「他の人に教わった方が良いのに」と母に言われる。でも母でこんなに厳しいんだから、他人だとどのくらい厳しくて怖いんだろうと思って、いやがった。
 兄にいじめられても、母は特にかばってはくれなかった。私が「かせみが悪いの」としか言わないから、何が行われているかわからなかったそうだ。元々さっぱりした性分なのと、照れ屋な部分も手伝って、母は深く聞こうとしなかった。

 HSC(highly sensitive child)の私は感受性が強すぎて、母には理解しくいようだった。HSCの概念が知れ渡っていない頃。タイプの違う親は、HSCの細やかさを、つい口にしてしまう。「大げさね」「考え過ぎよ」「そんなことで泣かないの」「怖がりね」「気が弱いのよ」「過剰反応」。一通り言われてきた。全部私が悪いのだと思っていた。

 でも母は明るくて、面白いことが大好きで、よく笑う。母の笑顔を見上げるのは嬉しかった。雷が怖くて、太ももにしがみついていると、「歩きにくいわあ」と笑っていた。母がアイロンあてている横で、おもちゃのアイロンを持ち、ごっこ遊びをすると母は笑っていた。靴磨きも羨ましくて、手伝うとニコニコしていた。刺繍も好きで、母に習った。失敗しても上手くいっても「そうそう。そんな感じ」とニコニコしながらその後をフォローしてくれた。母の使うマニキュアを自分の爪に塗って見せると笑ってくれた。


 帰国すると勉強が遅れていたので、連日、母の特訓が行われた。私の理解力や集中力のなさが、母にとってはイライラするようで、しょっちゅう怒られた。私は泣いてばかりいた。
 母に怒られないために私はウソをつくようになっていった。

 学校でいじめられても、私の気が弱いからとか「お母さんならこう言い返す」とか言われて、自分が悪いからだと思い、隠すようになった。

 中学受験の時は、母も勉強を見てくれたけど、やっぱりよく怒られてピリピリされて怖かった。でも勉強の後、大笑いしながらストレッチするのは楽しかった。

 中学生以降、母方の祖父母と一緒に住むようになってからは、よく喋る兄に注目が集まる。私がいなくても誰も悲しまないと勘違いするようになった。私なんていなくて良いとの思いは、長い間持ち続けていた。

 それでも季節ごとに、母と梅田や三ノ宮に買い物に出かけ、服を買ってもらった。ランチを食べたり、買い物の行き帰りに電車に乗ってお喋りをしたりが、とても楽しかった。

 大学生になると髪の毛を編んでくれたり、体型や肌について話したりもした。

 そして結婚してからは、夫について何か言われると、わかってもらえないんだと、胃潰瘍になってしまった。

 母と楽しい思いをしたいからと、母に対して気を使う日々に疲れてしまう。

 当たり前だけど、しんどい思いと楽しい思いはまぜこぜに、日常が過ぎていく。

 子供ができてから、母乳をやる時に、ホルモンが激動するらしくて自律神経失調が悪化した。幼少期からある、妙な症状の正体を突き止めたくて心療内科に行ったら、その症状への対処とは別に、成り行きでカウンセリングを勧められた。
 そこで祖母の言葉や兄との関係で、自分にダメ出しを重ねていた私は、2時間も喋り続け。終わったら、母娘関係の本を勧められた。何故? 母について話したつもりはないのに。

 でも答えはそこにあった。

 母は、会った後や話した後、それについての批判や感想を口にする。評価されている気がして、私には怖かったのだ。祖母とそれについて話しているのではと疑念があった。さらに兄との比較で、私だけ嫌われているのではとの不安。

 それによって感情が振り回され、母の好みになるように気を遣ってしまう。「自分」がどう感じているかわからなくなり、それは自分の感じ方の自由を奪われるようだった。

 もっと母の感じ方や感想と、自分の気持ちを切り離さなければならない。
 それが結果的に、息子との今後の関係に影響していくと気が付いた。
 私が息子に向ける愛情と、母が私に向ける愛情の表現が違うとも気が付く。

 ようやく私に反抗期がやってきて、7年ほどの間、母に何度もキツイ言葉を投げかけた。母は悲しんでいたし嘆いていた。繊細な私を「面倒くさい!」と責めた。

 それでも抵抗し続けた。
 自分の考えていること、感じ方、表現の仕方を認めてほしいと気持ちを言葉にする。
 そして「私はお母さんとは違うんだ」と主張しているうちに、「母もまた私とは違うんだな」と納得し始めた。

 母の期待には応えたくない私であると同時に、母もまた私の思い描く母親なわけではないのだと。それは、お互いそれぞれの表現の仕方や個性によるものだと。その発見は、諦めでもあり、真の理解でもあった。

 それから、母が何か批判をしているように聞こえても、段々「そうか、お母さんはそう感じるんだ。私は違う」で済むようになっていった。
 40歳くらいで、怒りは怒りとして表現できるようになり、ようやく母と私は、ほどよい距離を保てるようになった。

 母は私と違って、考え過ぎて疲れても、だいたい「めんどくさくなっちゃった」と笑う。

 私の不安が強くて気持ちが沈んでいる時も、母は明るくて知性があって、心のエネルギーがある。落ち込んだ時に母と話して気分が救われたことは何度あっただろう。

***

 私って何でこうなんだろう。特別、仲良しでもない限り、うまく人付き合いができない。ツイッターでもnoteでも、うまくいかない時のパターンは一緒。現実の世界でもネットの世界でも、人を傷つけながら、関係をダメにしていっちゃう。自分がイヤになる。みんなはそんな風にしなくてもほどよい距離感で、仲良い人以外とも付き合えているのに。
 この前も愚痴をぶつけていた。

 「別に良いじゃない」
 あっけらかんとした母は、人付き合いもドライで、「自分流」が揺るがない。それで満足している風ではないけれど、さほど自分を嘆かない。
 でも「人を傷つけちゃうんだよ」。ダメな私なのだと繰り返していると、


 「それがかせみなのよ。世界でたった一人のかせみなんだから。他の人とは違ってもそれで良いじゃない」

と言われた。アラ。良いこと言うね。と笑うと母は続けた。


 「かせみは、かせみのプライドと気品を持ってたらいいじゃないの」

 プライドと気品。

 母らしい。また良いこと言うね。と笑った。

 自分でイヤな部分と思っていても、個性をそのままにと言われるのって、こんなに嬉しいんだ。

 「ようやくこの歳で、娘にこんな風に言えるようになったわ」
 母も嬉しそうだ。

 歳を重ねても、私の顔や個性を覚えていてくれると嬉しいな。私も息子をずっと覚えていたい。息子が悲しむ顔を見るのはいやだ。覚えているために努力しようね。

 祖母が亡くなり、母と私の「努力を続けよう」は、一度だけ言葉にしてからは、暗黙の了解となっている。


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かわせみ かせみ
読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。