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米をかす、鍵をかう、方言のこと

実家にいたころ。
夕方になると一階にいる祖母が階段下のベニヤの壁をばんばんとたたく。
「ほーい、お米、何杯かす?」と2階の母に聞く。
母が「五杯」とか返事すると、「ふーん」と「ふん」の中間くらいの返事。
パタパタとスリッパの足音が遠ざかっていく。
そのうちジャー、ジャー、と米びつの音がして、
水音とシャカシャカと米をとぐ音がしてくる。

洗米することを「かす」という方言を、祖母も母も話す。
アクセントは「貸す」とおなじ。
私はいま、炊飯の支度をするとき、「米かさなきゃ」とは言わない。
心の中でも「お米かそう」と言ってない。なんでだろう。
実家にいた時は「かす」と言っていた気がする。
その記憶すら薄れてきている。
こうやって方言が減ってくのか。さみしい。
祖父母は使うけど母は言わない方言もあったし仕方ないことなのか。

あの米びつも何年も前に実家からなくなってしまった。
サザエさんを見ていると、磯野家の台所の冷蔵庫の横に米びつがある。
うちのもあんな形で冷蔵庫の横にあった。

下の方にある123のレバーを押すと一合二合三合のお米が出る。
小さいころお手伝いでよくやらせてもらった。
五合と言われたら、2、3、で5になるけど、たくさんレバー押したい。
でも一合はちょろっと出て止まっちゃうから11111は物足りない。
なんの組み合わせで出そうか米とぎ用の黄色いボウルを置いたまま悩み、
母に「何しとるだん?」と声をかけられ、母は単に聞いただけなのに、
私はいたずらを見つかったような気分であわてて2と3で出した。

お米が減ると祖母がダイヤル式の黒電話で注文をかける。
「〇〇米屋さん?〇〇町の〇〇ですけど、いつものお米20キロお願いします」
じきに玄関に大きい米袋が届いて、米びつの上のふたがはずされ、
祖父などが「あらよっこいしょ!」と米袋を持ち上げてザーっと入れていた。

ごはんをよそっていて(よそう、は食べものを器に盛りつけること)、
祖父のごはんを大盛りにしてあげようとしてペタペタとしゃもじで整え、
きれいにてんこ盛りにしたら、祖母が見て、
「こんなきれいに丸くするのは仏さんのごはんだ。縁起が悪い」
と言って、ぐしゃぐしゃと崩され、ガーンてなったこともあったけど、
「これ新しい米か?うまいな」「ササニシキ?」「新米?」
など言いながら食べてたのが懐かしい。

あの頃は玄関の鍵は昼間は開けっぱなしで、夜になると祖父母が
「ほい、玄関、鍵かった?」
「かってない。もうみんな帰ってきたな。かってくるわ」
と言って鍵をかけていた。
出かける時も、家が留守になることは滅多になかったけど、
「あんた、最後に出るだら?鍵かっといてよ」
とか、子供だけで(といっても高校生とか)留守番のときは、
「外から鍵かっとくで、誰か来ても出んでいいでね」
なんて言われてた。心配性なのだ。

鍵をかけることを言う「かう」は「買う」とはアクセントが逆。
でも関西育ちの夫にとっては微妙なのかもしれない。
「鍵かったよね?」って聞くと、何言ってるの?ってなるらしい。
鍵をかう、も今の私は言わなくなった。
夫もそんなに関西弁が出なくなってきている。
家族の会話は微妙に方言が混ざりながらも、だいたい標準語っぽい。

方言といえば以前読んだこの本おもしろかった。
『自閉症は津軽弁を話さない』(福村出版、または角川ソフィア文庫)
うちのこどもの場合も、あまり方言を話さなかった。
テレビから覚えた言葉が多かったと思う。
でも、幼稚園行ってた頃は地元の方言がちょっと入っていたし、
一時期はお父さん(あるいはテレビ)の関西弁が変なふうに混ざって
「(この録画はもう)見たねん!」みたいになってたし、
最近はYouTubeをいっぱい見るので
「〜すぎて草」「〜とは。カッコ哲学」などと言っている。