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公共空間再考

 8月6日夜、小田急小田原線の車内で刃物を持った男に襲われ10人の男女が負傷する事件が起きた。被害者のうち20代の女性一人が重傷を追っている。犯人は犯行後に自首しており、警察の調べに対して「6年ほど前から幸せそうな女性を見ると殺してやりたいと思うようになった。(中略)誰でもよかった」と供述しているという。

 事件についての詳細は下記のリンクから確認していただきたい。
[https://www.tokyo-np.co.jp/article/122491]


1.ショッピングモールから考える

 僕はいま近代体操が主催する読書会に参加しており、8月7日の課題本の一つが東浩紀/大山顕『ショッピングモールから考える』だった。三つの対談が収録されたこの本の中には「電車の車内は公共空間そのもの』という発言があるのだが(78頁)、それを踏まえるなら今回の事件が発生したのは日本において最も端的な公共空間だったわけである。そして、そのような公共空間が現場として選ばれたのにはおそらく理由がないわけではない。
 特定の街やある店舗には規制が張られていなくとも立ち入りにくい心理的なバイアスがかかることがある。端的には表参道やそこに軒を連ねるブランドの旗艦店などは誰にとっても入りやすい場所ではない、という簡単な理屈である。それに対して電車というのは誰もが当たり前のように立ち入ることができ、そこにいる理由を問われることもない場所なのだが、この特徴はその空間が公共の場と言えるかどうかの条件と一致していると思う。このような公共空間には様々な人が居合せ、場合によっては今回のような事件が生じ得る。しかも社会に生きている限り誰もこの公共空間からは逃げられない。
 このような公共空間について真剣に考えるなら、それは突き詰めれば事件の犯人のような人といかにして共存するかを考えることだろう。犯人に対して反発を示して処罰感情をたぎらせるだけではこういう事件は永遠にくり返されることになるだけである。そうではなく、たとえ無理だとしても犯人に共感しようとするような姿勢で挑み、なぜ「誰でもよかった」という動機を抱くに至ったかを考えるべきなのだ。そもそも「誰でもよかった」という言葉はたぶん本当の心情を表せていなくて、事件を起こすということでしか自分の窮状を訴えられなかった犯人が、取調室の中で呻くようにして口にした苦し紛れの発言なのである。それがまったくの偽りではなかったとしても、犯行に至った心理を十分に表せているものではないことは確かだ。犯人が十分に言語化できなかった本当の動機は社会的なものなのかもしれないし、個人の生い立ちに由来するものなのかもしれない。それを突きとめるのはこれからこの犯人と向き合っていく周囲の「誰か」なのだが、あるいはそのような「誰か」を持てなかったことこそが動機の遠因だったと言えるかもしれない。それも含めて真剣に考えることが社会の責任なのではないかと僕は思う。


2.フェミサイドを抑止する

 ここで「社会」と言ってるのは漠然とした概念としての社会ではない。いまこれを読んでいるあなたのことである。あなたが犯人の出生や生活について少しでも想像を働かせれば、今回の事件の犯人のような人、事件を起こしかけている人が、他ならぬあなたの身近なところにいると気づけるようになるかもしれない。そんな人は自分の周りにはいない、とあなたは思うかもしれないが、今回の事件の犯人の周りにいた人もまったく同じことを考え、結果的に犯人を不可視の存在としてしまったのだ。あなたや僕にいま見えていないだけで、犯行に至る可能性を秘めた人は案外、身近なところにいるかもしれない。今回の事件の犯人に対して想像力を働かせれば、身近なところにいるその人に対して、結果的には犯行を食い止めることができなかったとしても、その人がある種の窮地に至っていることに思い至ることができるようにはなるだろう。それはこのような事件における犯人にとっての「誰か」が増えていくことに繋がる。現時点で今回の事件をフェミサイドだと認定できるかは慎重になる必要があると思うのだが、仮にフェミサイドだったとしても、それを抑止することができるのは、あなたが犯人になり得る人にとっての「誰か」になることだと思う。あなたの集合としての社会が犯人にとっての「誰か」であれば、事件は抑止されるかもしれないのだ。


3.公共空間再考

 誰もが当たり前のように立ち入ることができ、そこにいる理由を問われることもない公共空間とは、「犯人」と「誰か」が共存する場所である。今回のような事件は公共空間においてこそ生じるのかもしれないが、同時に、「犯人」と「誰か」が共存する公共空間こそ事件を抑止し得る場所なのである。もちろん、現実の公共空間がそのような場所になっていないことは僕にもよくわかっている。また、公共空間が「誰か」で満たされた状態とは社会が濃密な人間関係で成り立っているということであり、それに窮屈さや苦痛を感じる人も出てくるだろう。公共空間が「誰か」で満たされたからといってすべてが解決するわけではないのだ。というより、公共空間を考えるとはそういう単純な解決策があるという思考を放棄することなのである。
 今回の事件について考えることは、犯人を狂人として処罰感情の対象とすることではない。そのような姿勢は永遠に同じような事件をくり返す社会を生み出すだけである。そうではなく、事件について考えるとは突き詰めれば社会をどのようなものにしたいか考えることであり、公共空間を考えることである。逆に、公共空間を考えるということは突き詰めれば今回のような事件について考えることなのだ。両者は無関係な別々のものなのではない。私見では2016年に出版された東浩紀/大山顕『ショッピングモールから考える』にはこのような視点がなかった。今回の事件を経験した現在、新しい視点をもって事件/公共空間を再考すること、それが事件の抑止に繋がり得る姿勢なのである。


追記

 その後の報道を確認すると今回の事件は明らかに女性を標的にしたフェミサイドであり、ヘイトクライムの一種です(被害者の女性は幸い亡くなられたわけではないので、厳密にはフェミサイドではないのかもしれませんが、女性を狙った犯罪であるという点は明確です)。無差別な犯行ではなく女性を狙っているという点で、これは明確に差別の問題だということを明記しておきたいと思います。

 また、今回の事件において被害にあった方の早期の回復、心理的負担のケアを切に願います。

 被害者のケアを考えるということも、被害に遭われた方の周囲の人が気にすればいい問題ではなく、公共空間の問題として、つまり社会の問題として考えるべきだというのが僕の主張でもあります。この点についても、この記事をお読みになった方が「再考」していただければと思います。

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