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ミラノ_day18_ヨーロッパ建築旅行2018

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個人的に難所だったローマから毎度の夜行バスに乗ってミラノへやってきた。この旅行を計画する前はミラノがイタリアのどのあたりにあるかなんて定かではなかったが、ミラノは比較的北の方にある都市だ。イタリア以降入っていく予定のスイスにも近い。

まずミラノのバスターミナルは中心部にはなく、郊外に位置しているので中心部へはメトロに乗ってアプローチする。

しかし、その前にメトロを反対方向にすこし行くとカルロ・アイモニーノとアルド・ロッシが設計したガララテーゼの集合住宅があるので、まずはそこから。


その集合住宅はメトロの駅からすぐのところにあった。
集合住宅の見学のパターンとして、そもそも敷地に入れないパターン、敷地には入れるけど建物には入れないパターン、共用部までは見学できるパターンがあるが、ありがたいことに共用部までは見学することができた(地上階だけだが)。集合住宅は、相当に有名な建築(ユニテとか)でないと、そもそも見学が可能か自体、事前に分からないことがほとんどなので門前払いにならないのはラッキーなことだった。

敷地の入り口に管理棟があり、そこのおじさんにパスポートを預けて見学許可のパスをもらい中に入れてもらう。

この集合住宅は先述したようにアイモニーノ設計の棟とロッシ設計の棟があるが、見て回った感じ7割がアイモニーノ設計の棟である。だが知名度としてはロッシの棟の方が高いようだ。


ロッシについては興味はあるが不勉強なので、とりあえずメモ的に印象をまとめておく。
建物の雰囲気はポルトでみたシザのボウサの集合住宅に似ていた。そして有名な列柱のピロティは不思議な場所だった。人が集まってわいわいするような場所ではなく、もう少し別のところに焦点があるように見える。誰にも所有されない場所としてそこにあるという感じだ。これが良いか悪いかはちょっと判断が難しい。
人間工学的に適切なものが人にとって何よりも心地良いものなのか?という問いがあるが、少なくともロッシのこのピロティも、そういった心地よさへ最短距離で近付こうとするアプローチとは、別のやり方のようだ。

ガララテーゼの集合住宅を見た後、ミラノの中心部へ移動。ホステルにバックパックを預けて、目指すはFondazione Prada。
これを見るためにミラノに来たといってもいい。

建物はミラノ市街地南側の線路沿いに位置していて、周辺は中心部に比べ少し寂れた雰囲気があり、再開発されつつある地域であることが窺える。
もともと醸造所だった建物をプラダ財団の美術館に改修した計画である。

上記のダイアグラムのように、既存工場の配置をほとんどそのまま利用しつつ、部分的に解体と増築を加えている。大きく手を加えているにも関わらずそれぞれの建物同士は内部空間では繋がれておらず(サービス側の空間はすべて地下でつながっているが)来訪者は建物を出たり入ったりし、中庭を渡って、地下に潜って、今度は塔に登るという体験をする。
それぞれの建物ごとの体験に分裂しつつも、やはりどこかではそれぞれの体験がリンクしているというような感覚を覚える。
また、既存建物を残す部分、手を加える部分、解体する部分、増築する部分とが複雑に混ざり合っている。これは、単純に元の状況から目指すべき状況に向かってどういったことが必要であるかを素直に進めていき、結果的に複数の工種にまたがっていただけのように見える。
マテリアルも特注のアルミ外装パネルから既製品のチープな素材まで幅広く散りばめられている。

この建築については、今後もよく考えていかないといけないと思うが、私が直感的に魅かれるのは、現代建築からは感じたことのないタイプの体験であるからだと思う。
おそらく近代以前に最も主流であった建物を再利用した計画は近い体験の質を持っているのではないかと思う。(建物の再利用について詳しくは加藤耕一著の『時がつくる建築 リノべーションの西洋建築史』にまとまっている)

私が学んできた建築設計は基本的に更地に新しい建物を計画することを前提として構築された学問である。そこでは提示された与件をもとに建築を設計することがほとんどで、与えられた機能を満たす空間やかたちを設計する、という順序が支配的だった。実際、実務の世界でもこの順序で計画が行われることは多い。しかし、全てがそうではないのも事実だ。
特に改修計画の場合、事前に厳密な機能と必要面積が決まっていることはあまりないように思われる。これは既存の状況によって何ができるかが大きく変わることにも起因しているが、そうすると先ほどの機能→かたちという順序は意味を持たなくなり、逆にかたちから機能を見出すという設計が行われることがあり、リノベーションの計画にはこの順序の発想が入り込んでいることが多いように思われる。また、かたち→機能の順序を新築の設計方法の中に取り入れる試みも既に何人もの建築家が行っている。

こうやって見ていくとかたちと機能には切っても切れない関係が、最初からあるように感じられる――いろいろなアフォリズムが思い出される――が、思うに建物のかたちと機能は本来なにも関係がない。建物のかたちと機能の関係には必然性がないといった方が良いかもしれない。
つまり、かたちと機能に結ばれる特定の関係を前提として設計を出発してはいけないということだ。

今回の建築を含めたいくつかの改修計画は、その都度結ばれるかたちと機能の関係という視点においてとても面白い試みとしてみることができると思った。

今回の旅行中この他にもいくつか似たような建築をみることができたので日記を書きながら考え、最後にはきちんとまとめたいと思う。

190122@東京

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