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53.境界その2

「39.境界」の話を聞いたIさん、自分自身の体験も思い出した。
 結婚して初めてのGWに夫婦で関西旅行をした時のこと。
 夜行バスで早朝現地に着き、夫が運転するレンタカーで数日間各地を回った。
 ところがかなりのハードスケジュールだったせいか、途中で喧嘩になった。
「理由が何だったのか今じゃ全然思い出せないから、きっと些細なことだったんだよね。だけど当時はとにかく腹が立って、でも運転してもらってるもんだから思うさま責め立てるわけにもいかなくて、やたらイライラしてた。それだけはよく覚えてる」
 車中での会話は無くなり、気まずい空気が流れた。
 とりあえずIさんは事務的にナビゲートし、夫も黙って運転を続け、次の目的地に着いた。
 知る人ぞ知る、古く由緒のある大きな神社である。
 まず以て街並の雰囲気が良かった。昔ながらの家々が立ち並ぶ落ち着いた佇まいで、歩く人にも活気があって明るい感じがしたのだ。祭りが近いのかあちこちにのぼりが立ち、どこからか太鼓の音が流れてきていたのも好印象だった。
 車を駐車場に停め、真っ白な玉砂利を踏みながら立派な大鳥居をくぐる。
(うわあ……)
 程よく湿気を含み、ひんやりした爽やかな空気がIさんの全身を「洗った」。
(何コレ……すごく気持ちが良い)
 そのまま息をいっぱいに吸い込むと、欝々とわだかまっていた怒りや苛々はあっというまに解けて消えた。
「まさに解けたのよ。あの場の空気を浴びて、ふわあって散った感じ」
 夫も同じような感覚になったらしい。
「この神社、何かいいね。境内も綺麗だし」
「山だもんね。森林浴効果かな?」
 などと会話がはずみ、身体も気持ちも軽くなった。
 それ以降は一度も揉めることなく、無事旅行を終えた。

「神社であそこまでガラリと気分が変わったのは初めてだった。結構遠いところだけどまた行ってみたいな。でも」
 きっと本当に必要なときしか呼ばれないんだろうね、あそこは地元の人たちのための神社だもんね、とIさんは神妙な顔で締めくくった。

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「文字として何かを残していくこと」の意味を考えつつ日々書いています。