見出し画像

97.賽の河原

 Aさんは自他ともに認める「山男」だ。登山歴はゆうに40年を超える。
 そんなAさんがはじめて泊りがけの登山を経験したのは昭和後半、ファミリー登山が流行り始めた頃のことである。
「盆休みに家族と親戚で旅行するのが恒例だったんだけど、その年は北アルプスのB岳に登ったんだ。山小屋に泊まって、夜明け前に出発して頂上でご来光を見る、みたいなプランだった」
 あいにく夜中は風が強くとても素人が登れる状態ではなかった。結局、明るくなり風が収まってから山小屋を出た。
 当時Aさんは小学六年生、兄と従兄Cはともに中学二年生、元気盛りの男子三人である。山小屋から殆ど休みなしで頂上まで登り通し、他の家族がようやく全員揃った頃にはすっかり飽きてしまった。
「ねえ、俺たち先に下りてっていい?」「だよね、道はもうわかってるしさ」「山小屋で待ってるから!」
 親たちは止めたが、体力のあり余った三人はきかない。
 根負けしたAさんの父親がため息交じりに言った。
「少し霧が出てきてる。道に迷いはしないと思うが気をつけるんだぞ。危ないから絶対に走るなよ」
「はーい!」
 返事をしたそばから三人は来た道をハイスピードで引き返し始めた。下るにつれ霧はじわじわ濃さを増し、気がつけば辺り一面真っ白で視界はゼロに近くなった。
 とはいえ盆休みのことでそれなりに登山客は多く、上り下りの人影が絶えることはなかった。まして三人一緒である、足元とその周辺しか見えなくても平気の平左だった。
(あれ?)
 兄とCに挟まれて歩いていたAさんは奇妙な看板に気がついた。左前方、まな板より少し大きいくらいの煤けた木の板に、
 さい の かわら
 とある。毛筆で書いたらしい、武骨な文字だった。
(こんなのあったっけ?)
 道じたいは覚えがある。頂上へ続く岩場に入る手前、幅広の緩く長い坂だ。ここを抜ければ山小屋まではすぐそこのはずだった。
 兄に聞いてみようかと思ったところで、Cが急に、
「なあ、競走しようぜ!」
 いうが早いか走り出した。兄も続き、Aさんもつられて後を追った。父親の注意など吹っ飛んでしまった。
 踏みしめる砂利は大きすぎず小さすぎず足にフィットして、飛ぶように身体が運ばれていくような感じがした。
 気持ちいい。
 なんて気持ちがいいんだろう。
 このまま行けるところまで駆け下りよう。
 兄とCの背中を見ながらそう思っていた、というAさん。
(!さい の かわら!)
 さっき見た看板の文字がパッと頭に浮かんだ。
(さいのかわら……)
(さいのかわらって、賽の河原、だよな)
(三途の川にあるっていう)
(婆ちゃんが昔からよくいってた)
 親に先立つという不孝をおかした子供はその河原で石を積むのだ。
 積み上げたところで鬼に壊され、また一から積み始める。
 積む、壊される、積む、壊される。それが続く。何日も何日も、何度も何度も、ずっと。
 ずっとずっとずっと。
 ずっとずっとずっとずっとずっと。
 ず っ と
「に い ち ゃ ん !!!」
 大声が出た。勢いで転びかけ、かろうじて踏みとどまった。
 前方の、二人の頭がみるみる白に呑み込まれていく。
 待てまて、止まれという兄の声。
 ざっざっざっという規則正しい足音が乱れ、ゆっくり間隔を狭め、やがて止まった。
 Aさんはガクガク笑う足をなだめながら、二人のいる方に急いだ。
 すぐに二人の後ろ姿が見えた。
「兄ちゃん、Cちゃん」
 Aさんが声をかけ近寄ると、Cに強く腕をつかまれた。
「え、何……」
「崖だ」
 三人が今立っている場所から一メートルもない。
「あっぶね……」「Aが呼ばなきゃ、全員落っこちてたな」
 道は唐突に途切れていた。

「なんてことない、濃霧で道がゆるーくカーブしてたのに気がつかなくて、そのまんま真っすぐ進んじゃった。今はそんなことないだろうけど、あの時は目印もロープも何もなかったんだよね。命びろいしたよ。親?もちろん知らない。三人で示し合わせてダンマリ」
 Aさんはフフっと笑って、また言った。
「ただね……『さいのかわら』だけは気になって、こっそり地図で調べてみたんだけど、B岳にもその周辺にもそんな場所はなかった。ネットで詳細なマップが見られるようになった今でも、やっぱり見つからない。大人になってから同じルートを登ってみたけど、落ちかけた崖すらどこかわかんなかった」
 兄やCはその看板を見ていない?
「特に聞いてはないけど、多分ね。思うに『子供』っていえる年齢が俺だけだったからじゃないのかな。ほら小六だと公共料金も子供扱いだし」
 救ってくれたのは何なんだろう。山の神か、Aさんを守護するものか。
「いや、俺の感覚としては違う……逆、なんだよね」
 逆?
「うん。山にいる何かと俺の戦いで、今回は俺が辛くも勝った、って感じ。頭ん中にバーンと出て来た『さいのかわら』って、思うに俺の動物的本能というか、無意識の防衛モード?な気がしてる。子供なりに必死で手持ちの記憶や知識をかき集めた、みたいな」
 何であれ、無事でよかった。
「そうだね。次は勝てるかどうかわかんないもんな。どんな山であれ、いつもそう思って登ってるよ」
 Aさんはまた笑って、話を終えた。

この記事が参加している募集

「文字として何かを残していくこと」の意味を考えつつ日々書いています。