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僕と1.17 ④

夜の避難所へ

震災発生後の最初の週末ごろだったと思います。
父の同僚が小学校に避難していて、
会社から可能なら見舞いに行ってくれないか、とのことで父が帰宅後に兵庫区の会下山小学校まで行くことになりました。

震災発生後、マンションから出ることはほとんどなかったし、出かけるとしても入浴や買い物、給水所は、住んでいる地区よりもさらに被害の小さい地域ばかりでした。
どの道を通って行ったのかは覚えていませんが、多くの道は通行止めか、通行制限がありました。
 
その頃にはほとんど車の通りもなく、閑散としていたように記憶しています。
垂水区から、須磨区、長田区と東に進むにつれ、町はどんどん暗くなります。
 
学校近くに路上駐車し、(当時は今のようにコインパーキングなどがそこかしこになかった)避難所という場所柄、ゾロゾロと行くものではないだろうと、父と母だけが救援物資を持って、避難所内に行くことになりました。
 
車の中は僕と弟だけです。ちょうど歩道橋の柱が後席の窓から見える場所に停めていたので、
「今余震が来て、この歩道橋が倒れて来たらどうしよう。」
などと思いながら、心細く待っていました。
弟はやはり、スヤスヤと寝ていました。
 
10分か15分ほどだったか、あるいはもっと短い間だったとは思いますが、両親が車に戻るまでの時間はなかなかに長く感じました。

避難所の様子

兵庫区はその名の通り兵庫県発祥の地で、
戦前は神戸でも有数の繁華街、新開地を抱えており、古くは福原京もあった地域です。
そのため、町の作りも古く、結果的に倒壊した木造住宅も多かったのでは無いか、と思います。

幸いなことに、父の同僚とその家族は元気そうだったとのことでした。

ここからは両親から聞いた話ですが、避難所のキャパは完全に超えており、体育館や教室でも足りずに、廊下にも布団を敷いている人がいたとのこと。

ご存知の方も多いかもしれませんが、神戸市の小中学校の大半は体育館など一部を除いて土足で学校生活を送ります。

上履きを履く文化がなく、木の床には「油引き」といって、床を保護するために「油」を学期末に塗ります。
ワックスのようなスベスベでサラサラしたものではなく、天ぷら油とか機械油とか、そういった類のベトベトの油です。
油引きの直後は床に油が浮き、男子はスケートの真似事をしては、転んでドロドロになります。

そんな教室の床に、ギチギチに布団を敷いて、それでもなお場所が足りず、コンクリート打ちっぱなしの冷たい廊下の床、トイレの前まで、ところ狭しと避難された方達が寝ていたとのことです。
もちろん、水は出ませんから、トイレの様子も推して知ることができます。

避難所からの帰り道

ここまで書いていると、避難所に行くのは父だけで、母と僕たちは家で留守番でもよかったのではないか、とも思います。

おそらく父が僕たちを連れて行った目的は、神戸の町を実際に見せておこうと考えたのでは無いかと思います。

兵庫区からの帰りは来た道をそのまま通るのではなく、住民がいなくなり閑散とした住宅街や工場が並ぶ長田の町中を通りました。
 
街灯は一つもついておらず、ヘッドライトが照らす範囲を目を凝らしていると、垂れ下がった電線、原型を留めないほどに崩壊した家、2階のベランダらしきところが道路にはみ出た家、傾いたビル、そして、焼き尽くされた長田の町がそこにありました。

「わたしたちの神戸市」で習った、長田区で盛んな産業であるケミカルシューズは、いわば問屋製家内工業で小規模な工場が集まったところで作られています。
ゴムや接着剤、有機溶剤が多くあり、それに加えて古い街並みゆえ、隣家とは隙間なく詰まっていて、道も狭い、いわゆる下町と呼ばれる地域です。

下町の職人、商売人気っ風に加え、比較的海外の方も多くてとても賑やかな町です。

ですが、真っ暗な中で、さらに真っ黒に焼けてしまった様子は「町が死んでいる」と子供心に感じました。

父の高校は(のちに僕も通うことになる)長田区にあり、高校時代から馴染みのある風景に、父も少なからずショックを受けただろう、と今になって気づきます。

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