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僕の生活に「読書」が戻ってきた。分人とパラレルワールドを生きるということ。


又吉直樹さんが「火花」で芥川賞を受賞したのは2015年らしい。
もうそんなに経ったのか、と時の流れの早さに驚いている自分に気づき、「時の流れが早い」という何ともおじさんくさい感覚に染まっていることに落胆したところだ。


平日は怒涛の勢いで過ぎていく。全力でサラリーマン風を装っている僕は、休日になるとしばしば衝動的に小説の世界に逃げ込む。


先日、珍しく1Kの狭い自宅に大学時代の友人が数名来た。お酒が入っていたからか、深夜だったからか、理由は分からないが、ひょんなことから小説の話になり、文学好きな友人の散らした火花が、しばらく放置されたしけった僕の導火線に火をつけたらしい。


元来、本の世界が好きな僕に「読書」という日常が戻ってきた。


話を元に戻そう。
僕が又吉直樹さんの「火花」を冒頭に挙げたのは、文学好きな友人のススメで、2024年になって遅ればせながら読んだからだ。

一時期話題を呼んだ又吉さんの芥川賞受賞。なんとなく、話題づくりのためなんじゃないか、という邪推が頭をもたげ、これまで手に取るのを敬遠してきた。


でも、読んでみて納得した。芥川賞に相応しいかどうかは素人の僕が判断することはできないが、“明らかに“一介の芸人が書く文章ではない。ああ、こんな美しい世界があったんだな、と久々に読書体験の独特の余韻を楽しむことができた。


映画化される作品は、描写がくっきりとしていて、強いけれど曖昧で大きな感情がうねりながら押し寄せてくる。僕はいつも広い海に浮かぶ葉っぱのような気持ちになり、言葉に身を委ね、行間を揺蕩う。



僕の好きな本に平野啓一郎さんの『私とは何か 「個人」から「分人」へ』という1冊がある。


自分の中にはAさんと接する時の自分と、Bさんと接する時の自分と、Cさんと接する時の自分と…がいて、それぞれが一致しなくても何ら不思議ではないという「分人主義」という人間観を提唱している。


この本に出会ったのはおそらく大学生の時だったと記憶している。学校にいるときの自分、家で家族と過ごすときの自分、恋人とデートをしているときの自分、気心の知れた友人たちの輪にいる自分、それぞれが別の顔を持っていて、それぞれの場面で生まれる言動や考え方の微妙な食い違いが、何とも気持ち悪かったことを覚えている。


平野さんの言葉は僕のぼんやりした「気持ち悪さ」に輪郭を与え、人類にとっての「当たり前」に昇華してくれた。平凡な表現で片付けたくないが、とても「すっきり」した。



読書は人の経験や気持ちを追体験できるから良い、と、どこかの誰かが言っていた(よく聞く言葉だ)。


特に小説やエッセイを通じて自らの知らない世界を追想すること、それはすなわち、分人を生成することと似ているのかも知れない(自己啓発本は「いつもの(例えば仕事中の)自分」として読んでおり、分人を介していないような感覚がある)。


読書が趣味というと何だか崇高なイメージを勝手に押し付けられてしまうことが多いので、僕はよく「現実逃避」と自嘲気味に読書を表現する。


まあ、現実逃避だろうが、追体験だろうが、分人の獲得だろうが、表現は何だって良いが、現実世界も本の中の世界も全部がパラレルワールドで全部の自分が現実の自分で、それが自然であり、拒絶や戸惑いの対象になりうるものではないんだろうと思う。


さて、自分でもこの話の終着点を見失ってきたので、引き返せなくなる前にここで退散しようと思う。


肩肘はらず、色々な世界を揺蕩いながら、気ままに生きていけたら。



ちなみに今は、多和田葉子さんの「地球にちりばめられて」を読了し、「星に仄めかされて」を読み始めるところ。そのうち読書記録もnoteで整理していこうかな…

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