絵本をツールに対話する
先日、絵本を読んで対話する、という会に参加した。
夏に『ぼくたちの哲学教室』というドキュメンタリー映画で観てから、
哲学対話」に興味を持った。「哲学」といっても難しいものではなく、
「対話」を軸として問いを立て、それぞれ考えを話しあうというもの。
映画では、舞台となった学校が、その「対話」の姿勢をとっていて(哲学についての授業もあった)、校長をはじめとする大人と子供たちが日常的に対話する姿が印象的だった(この映画について感じるところはたくさんあったのだけれど、長くなるので、それはまた別の機会があれば)。
今回の「絵本と対話の会」も、ちょうどそのような「哲学対話」スタイルとのことで、それはもう、一も二もなく飛びついてしまったのだった。
会の流れとしては、参加者が輪になって座り、主催者さんのチョイスした絵本を一冊読んでもらう。読んでもらった絵本についてそれぞれが感じたことを伝え、そこから今日のテーマを決める。その後、テーマについての対話をしましょう、というもの。
意見はまとまってなくてもいいし、話したくなければ聞いているだけでもいい。否定もしない。無理に時間内にまとめなくても大丈夫。必要なのは「なぜ?」と問いをたてる心。
この日よんでもらった絵本は「このよでいちばんはやいのは」。
でてきたテーマは「想像力」。
私は日常生活でも、想像力の有無やその度合いで行動が変わるなって
思っている。だから「ちょっと想像すればわかるのになー、わからへんかなー…」なんて残念に感じたりすることも、ままある。
そしてその「想像力」、自分のそれは、今まで読んできた本によって育まれてきたと感じている。のだけれど。そうじゃない方法での(読書以外での)想像力の育み方ってあるんだろうか?みたいなことを最近考えてもいたので、そのことをまとまりきらないながら伝えてみた。
そこからの対話で出てきたのは、「想像力」とひとくくりにしているけれど、「想像する」チカラと、「空想する」チカラ、はたまた「妄想する」チカラ、とはそれぞれ違うよね、読書で育まれるのはそのうちのどれかなぁ?っていう話だったりとか、
そこから「言葉」という概念に発展して、「言葉」を「発すること」だけでなく、そのまわり、例えば発している人の表情や言い方、雰囲気、さらにはその人の経験やバックグラウンド等々、もひっくるめて「言葉」としてとらえてもいいんじゃない?という話だったりとか。
プライヴェートな内容もあったりするので詳しい内容は省くけれど、思ったことをまとめようとしないで、ただ思ったまま人に話す、そして他の人の話をジャッジせずに一旦受け入れてみる、というのは、なかなか日常生活では
ないことで、解放されて気持ちが良いものなのだな、と感じた。
否定されたり、ジャッジされたりされることは、やっぱりプレッシャーを感じるものだと思うのだけれど、それがない場である、というのは、すごく気が楽だった。
それは普段自分が「人の目にどう映っているか」ということを気にしているからなのだろうけど。でも人によって違えど、大なり小なりそれがある人は多いんじゃないかな。
なので「否定されない」「ジャッジされない」その場はとても心地が良く、あっという間の「このよでいちばんはやい」時間となりました。
この、絵本を軸にした哲学的な対話の会。
とてもとてもおもしろかったし、何やらすごく満たされた気持ちになって
まだまだ延々と続けることができそうだったので、また参加したい。
帰ってからも話したトピックスについて新たな考えが沸き起こってきたり、
思い返して「あれはああいうことだったのかな」など思いをはせてみたり。
絵本をツールに対話する、というのが、ハードル高そうに見える「哲学対話」を気楽なものにしてくれているな、と感じました。
そしてますます「哲学対話」について興味が深まった次第でありました。
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