見出し画像

#039 「悲しみよ こんにちは」(サガン著)

「悲しみよ こんにちは」は起承転結を好む自分としては印象に残る作品でした。また、プレイボーイとされる父親の自由奔放でポジティブで短絡的などうしようもない人物像とその父親を見事に把握して操る娘セシルのやり取りは読んでいて飽きなかったです。子育て中の自分の立場からすると新鮮で「こんな生き方も世界のどこかには存在するんだ」と羨ましさとかではないですが発見がありました。


著者:フランソワーズ・サガン


小説の前に、著者について調べたことについて解説させてください。著者のフランソワーズ・サガンは1935年にフランスで生まれの女性です。デビュー作である本作は1954年の作品だそうです。ここで気づきます。なんと、18歳にして世界的名作を描いたのです。ここでまず驚きでした。名作と呼ばれる小説は、別におじいちゃんでなくても描けるのです。著者の早熟かつ才気あふれる人物像に興味を持ちました。18歳の時の私はいかに速くガリガリくんを食べる終わるかを友人とコンビニで競っていました。知性は比べるまでもありません。


フランソワーズ・サガン(Françoise Sagan、1935年6月21日 - 2004年9月24日)は、フランス小説家脚本家。本名はフランソワーズ・コワレ(Françoise Quoirez)。ペンネームは、マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』の登場人物 「Princesse de Sagan」から取られた。

wikipedia

wikipediaによるとサガンは2004年に死去とあり、つい最近まではご存命だったことがわかります。プルーストの小説「失われた時を求めて」は友人もハマっていたので、今度読んでみたいと思います。

しかし、莫大な金銭を得た人物にありがちなことであるが、たちの悪い取り巻きに囲まれて生活し、薬物(鎮痛剤・コカイン・モルヒネ・覚せい剤の一種アンフェタミンなど)やアルコールに溺れただけでなく、ドーヴィルに繰り出すなど生涯を通じ過度の浪費癖やギャンブル癖も直らず、数百億円も稼いだのに晩年には生活に困窮した。このような破天荒な生活を続けてコカイン所持で逮捕されたり、脱税で起訴をされたり前科もあった。バイセクシャルでもあり、夫以外にも男女両方の愛人がいた。故に、国内外のゴシップ誌にスキャンダルを書き立てられることも多く、芸能人顔負けのゴシップクイーンでもあった。[要出典]

wikipedia

wikipediaから不名誉なところも切り取ってみると、サガンは若くして莫大な金銭を得たがためなのか、その後の人生は色々と苦しんでいたようです。破天荒すぎますね。こう言った事実は、wikipediaがあるからこそ後々まで残りますが、過去の有名な作家などは時が洗い流して偉大な著書だけ残るのかも知れませんね。著者のスキャンダルは、作品とは何の関係もありませんから、個人的にはそこまで気にしていません。ただ、薬物中毒やアルコール依存症になりさえしなければ2024年現在も生存していた可能性は十分にあると思いました。


「悲しみよ こんにちは」の所感


自己啓発本ではないので、教訓とかそういった真面目な感想はありませんが、やはり父親のレイモンの自由奔放な生き方は物語全体に大きな影響を与えており、印象に残りました。

レイモンは束縛を嫌い、生活スタイルの変容を抵抗をしつつ複数の女性と交際していました。しかしある時アンヌとの関係が深まり、結婚することになります。アンヌは道徳正しさと意志の強さを兼ねており、無責任で自由奔放な暮らしをしていたレイモンと娘のセシルは生活スタイルの変化を求められます。レイモンはアンヌを愛していたため、アンヌのいうことを忠実に守ろうとしていましたが、セシルは溜まったものではありません。嫌いだった勉強も強制され、軽い気持ちから始めた恋愛も介入され真っ向から否定されます。

父は、父なりに苦しむことのできる範囲で苦しんでいた。つまり、ほとんど苦しんでいなかったのだ。アンヌに夢中、誇らしさと快楽に夢中で、そのためにだけ生きていた。それでもある日、私が朝ひと泳ぎした後に、浜辺でうとうとしていると、そばにすわって私を見つめた。その視線が重いのを、私は感じた。そこで、このところ癖になった見せかけの明るさで立ち上がって、父に「水に入ろう」と言おうとしたのだが、父は私の頭に手を置くと、嘆かわしい調子で声を張り上げた。
「アンヌ、このヤセっぽっちを見に来てごらん。ガリガリだよ。これが勉強のせいなら、やめさせなきゃならんな」

p82

「父は、父なりに苦しむことのできる範囲で苦しんでいた」という表現がとても好きです。「苦しんでいる」と言っても、苦しむ程度は人それぞれだというのと、「父が苦しむことができるのは小さじ一杯分」というような皮肉要素もあり、こんな表現を18歳ができるのかと思うと驚きました。


アンヌはどういう人物だったかというと、非常に知的で、優雅な振る舞いを持つ女性した。彼女は洗練された態度と冷静な判断力を持っており、物事に対して妥協しませんでした。セシルにとって道徳的な指導者のような存在にもなろうとしていました。

そんなアンヌに対してセシルはある作戦を実行してしまい・・・。印象的なこのシーンとなります。

アンヌが姿勢を正した。その顔が歪んでいた。泣いていたのだ。不意に私は理解した。私は、観念的な存在などではなくて、感受性の強い生身の人間を、犯してしまったのだ、と。この人にも小さな女の子の時代はあったのだ。きっと少し内気だったのだろう。それから少女になり、女になった。四十になり、まだひとりで生きていたところで、ある男を愛した。その人と、あと十年、もしかしたら二十年、幸せでいたいと願った。それを私は・・・この顔、この顔は、私が作り上げてしまったものなのだ。私は動くこともできなくなり、ドアに体を押し付けたまま、全身で震えていた。

P167


アンヌとセシルの関係、アンヌとレイモンの関係はそれぞれ印象的でした。終始自分の行動に対する責任感はセシルとレイモンに大きく欠けているところがありました。気丈な人間アンヌをしつこくねちねちと妨害するセシルの行為にはどうしても好感が持てません。やはり道徳的支えであるアンヌという存在は必要だったんだろうなと思います。仮にアンヌという人物が登場しなかったとしても、レイモンとセシルは自由奔放に生き続けており、それはそれで幸せだったような気もしますが・・・。


おしまい

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?