君だって欠損しているから好きなんじゃないか
吉本ばなな先生はこの世に完璧がないことを知っている。
完璧なものは存在しないから、欠損した部分を欠損として扱わない。そこも含めて全てだと、その中途半端なものがこの世界で在り、人間だと描いていく。
大きく欠損した環境や身体から始まる物語も多い。
敢えて失くして、失くしたものについて考えるのか。
はたまた、人間は最初から完璧ではないから大胆に欠損させるのか。
大好きなあの子が少し怖い。でも、なんでか会いたくなる。それは何故かちゃんと言葉にしてしまう。
大好きなあの子が少しめんどくさい。でも、なんでか好きなんだ。それは何故かちゃんと言葉にしてしまう。
私がいちいち言葉にせず、わざわざ目を向けて考えずにひっくるめてしまった部分を開示してしまう。
小説の中に数え切れないほど、ソレが散りばめられているから必ず私の記憶と完全に一致してしまうものがある。
その時、なつかしかったあの愛おしさ、苦しかったあのやさしさ、敢えて心の奥底にしまっておいた繊細な部分を言語化して目の前に出されてしまうのだ。
記憶が一致した時ではなく、読み進めていくうちにその物語に自分の思い出を馳せながら時を進めていると感情が大きく揺さぶられてしまうのだ。
わたしは「アムリタ」を読んでいる時に何故、手首を切ったのか思い出せない。
「白河夜船」を最後まで読めずに、ずうっと泣いていたのか思い出せない。
そしていま、「N・P」を読んでいながら頭の片隅でカミソリの居場所を探していた。
流石にさいきん、切り過ぎている。薬にしよう。
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