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徳のある人ほど得をする【きまぐれエッセイ】

上徳不徳。
あたしの友人、ヨシコさんが言うには、「真の徳とは心の中にあるものだ」と。彼女の話を聞くたびに、あたしは老子の第38章を思い出す。彼女の言うことには深い意味があるんだ。上徳とは、計算も策もなく、ただただ自然体で生きること。ヨシコさんはそのまんま、上徳の化身みたいなもんだ。

朝、彼女と一緒にコーヒーを飲んでいると、彼女の言葉が耳に残る。「あたしは自分のために何かをするんじゃなくて、ただ楽しむために生きてるだけよ」と。その一言に、あたしはドキリとした。無為の教え、道(タオ)の徳ってこういうことか、と。

世の中には、何でも自分の思い通りにしたがる人がいる。作為策略でいっぱいで、人を利用して自分のために得をしようとする。そういう人たちは、下徳と言われるべき存在だ。徳とは何か? 三個買えば一個オマケのお買い得じゃない。本当の徳とは、自分の行いに対して見返りを求めないことだ。

あたしもつい、自分が得することばかり考えてしまうことがある。でも、ヨシコさんのように「損して得とれ」という精神を持つのは難しい。でも、その考え方は、まるで二宮尊徳の教えを思い出させる。隣人を愛し、人に与えることが、最終的には自分の得になる。これはまさに道(タオ)の教えだ。

道(タオ)を失った時から、人々は「ドウトクの時間」として、仁や義や礼を語り始める。でも、本当の徳はそんな言葉の数々にはない。作為を捨てて、無為の教えを受け入れることが大切だ。

礼儀や知識にこだわる人たちが、世の中の混乱を生み出す原因にもなる。「近頃の若い女はなってない」だの、「礼儀を知らないばか者」だの、こうした言葉は、ただの騒音に過ぎない。礼儀作法を教えること自体は悪くないけれど、その過度なこだわりが、本来の徳を見失わせる。

徒花に実は生らぬ。

見た目だけのものは、結局、何も生まない。そんな風に、表面だけを取り繕っている人たちは、真の徳を持つことができないんだ。ヨシコさんのように、自然体で生きることが、本当の徳の道だと、あたしは信じたい。愚かなり、と笑われることがあっても、あたしはこの道を歩んでいきたいと思う。


上徳は徳とせず、是を以て徳有り。
下徳は徳を失わざらんとす、是を以て徳無し。
上徳は無為にして以て為す無く、下徳は之を為して以て為す有り。
上仁は是を為して以て為す無く、上義は之を為して以て為す有り。
上礼之を為して之に応ずる莫ければ、則ち臂を壤って之に扔く。
故に道を失いて而る後に徳あり、徳を失いて而る後に仁あり、仁を失いて而る後に義あり、義を失いて而る後に礼あり。夫れ礼は、忠信の薄にして乱の首めなり。前識は、道の華にして愚の始めなり。是を以て大丈夫は、其の厚きに処りて、其の薄きに居らず、其の実に処りて、其の華に居らず。
故に彼を去てて此を取る。

[老子:第三十八章論徳]


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