川越氷川祭#1-例大祭・神幸祭の歴史-
江戸情緒感じる豪華絢爛な山車が練り歩き、小江戸川越が大いに賑わう。
今年も「川越氷川祭」の季節になりました。
一般に「川越まつり」の名称で知られるこのお祭は、10月14日に毎年執り行われる例大祭、翌15日の神幸祭と、その付け祭りとして行われる山車行事から成る、川越において最も大きなお祭です。
【2024年のスケジュール】
10月14日 例大祭(11:00~)・祭礼始之儀(17:00~)
10月15日 神幸祭日程変更奉告祭(10:00~)
10月19日 神幸祭(13:00~)・山車行事
10月20日 山車行事・本殿彫刻特別拝観(14:30~16:30)
10月21日 祭礼納之儀(18:00~)
※今年は14日~21日までが祭礼期間です。
川越の歴史と深く結びついたこの秋の大祭について、その由緒や歴史的な変遷などをお伝えします。
例大祭の伝統とその意味
冒頭で触れた通り、一連の祭礼は例大祭に始まります。例大祭は当神社の創建由緒に基づき連綿と受け継がれてきた神事です。
しかしながら、その詳細については古代から近世にかけての記録が乏しく、今なお不明な点が多く残ります。
わずかな手掛かりの一つに、松平大和守家の『川越藩日記』(明和期~幕末)があります。
藩の防火責任者による視察記録をみると、「旗立」や「湯立神楽」「灯籠差出」「夜神楽」「夜札之辻へ神輿御旅廻」といった記述があり、夜間に火や照明を用いる祭事が行われていたことが分かります。
現在は毎年10月14日の午前11時から執り行われる当神事。もとは旧暦9月13日~15日までを祭礼日としていました。
13日に幟を立て、14日に「宵宮」と称し夜に神霊を迎え、一夜を通して奉仕を行い、そして翌15日の朝日を拝む「お日待ち」が行われていたと考えられます。
このように、祭りにおいて夜は重要な意味を含んでいます。先人たちは、人々が眠りにつく夜間を神様や祖霊、精霊の時間と捉えていました。また、柳田國男『日本の祭』(角川学芸出版、2013)によれば、昔の日本人は日没を一日の始まりとしていたとされます。
川越でも初日の夜に山車が並び(宵山)、祭りの殷盛は極まりますが、こうした古い習わしを引き継いだものといえます。
残念ながら例大祭は献幣使や来賓、氏子総代などに参列を限った神事です。多くの皆さまには以降で紹介する神幸祭からご覧いただけます。
神幸祭の起源-大火からの復興と繁栄を祈る-
神幸祭は、神輿に乗られた氷川の神様が町内を巡行し、人々の幸福と町の繁栄を祈る神事です。現在の山車行事の基となったこの神幸祭の起源は明確で、約370年前、徳川3代将軍家光の治世下に遡ります。
神幸祭の発端とその展開については本稿で触れ、現在の神幸祭行列や見どころなどについては次稿にてお伝えいたします。
寛永15年(1638)、川越の町は突如として大火に見舞われ、その大部分が焼失しました。翌年、幕府老中の松平信綱が藩主に着任すると、城下町の再整備に取り掛かります。新たな町割りや新田開発を進め、都市基盤が整えられました。
慶安元年(1648)。信綱公は氷川神社に神輿や獅子頭、太鼓などの祭礼道具を寄進し、御神幸(神輿が町内を巡る祭り)を奨励します。
ここに城下の復興と繁栄を祈る神幸祭が萌芽し、徐々に各町内の踊り屋台や山車が供奉する独自の発展をとげていくことになります。
神幸祭の形成-江戸との深い繋がり-
川越は江戸の北方防衛拠点であり、江戸時代後期には17万石にものぼる繁栄をみせました。その豊かな財力の背景には、江戸への物資供給を担う新河岸川舟運がありました。
川越の豪商たちは日本橋や浅草にも支店を持ち、江戸文化や風俗を敏感に取り入れています。祭礼もその一つで、神幸祭は江戸天下祭(日枝山王祭礼・神田明神祭礼)の影響を多分に受けました。
実は徳川家の産土神とされる山王権現(日枝神社)は、文明10年(1478)に太田道灌が川越仙波村から江戸城内へ分祀したものと伝わります。もともとは川越に由緒があったのですね。
神社は川越を源流に、祭礼は江戸に倣うー
両都市の時代を超えた古くからの繋がりがうかがえます。
川越独自の都市祭礼の成熟
明治期以降、東京では徳川時代の慣行を排除したい新政府の思惑もあり、幕府の庇護下にあった天下祭は衰退していきます。さらに、路面電車の発達や関東大震災などの影響もあり、次第に江戸型山車の姿は消えていきました。
その後、明治42年(1909)の深川八幡祭での町神輿登場を契機に、主流は町神輿へと移行していきました。
一方で、幸いにも川越ではこうした政治的な影響を免れたため、現在も山車(江戸系川越型)が残り、江戸の祭礼様式を伝えることができています。
貴重な文化遺産であることが評価された「川越氷川祭の山車行事」は平成17年(2005)に国の重要無形民俗文化財に指定。同28年(2016)にユネスコ無形文化遺産に登録されています。
繰り返す祭り、受け継ぐ祈り
時には藩財政の窮状や農作物の不作、大火、さらに疫病や戦争などにより神幸祭は何度も見送られ、20年近く間隔が空いたことさえありました。それでも、祭礼は一度も途絶えることなく続いてきました。
祭りとは、新しいことを求めるイベントとは異なり、長い年月をかけて培われた伝統や神話的な物語を忠実に再現し、「変えずに繰り返す」こと──
その継続性の中に本質が宿ります。
『万葉集』にも登場する「新しい」を意味する「あらたしい」という言葉は、決して新奇なものを指すのではなく、同じことを改めて行うという意味で使用されていました。時代が変われば当然人も変わりますが、新しい世代の人々が古いものを忠実に再現し続けることが、祭りの価値を次代へと受け継ぐことになると信じます。
神職たちもまた、どの時代においても変わらず一祭礼を守り、神に仕えてきました。流行に左右されることなく、供え物や祝詞ひとつをとっても、一字一句変えることなく、同じものを奉納し続けています。
ぜひ皆さまも、城下町川越の歴史と文化を象徴する伝統的なお祭りに足をお運びいただき、変わりゆく時代の中で、変わらないものの息吹を感じてみてください。
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