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富士山にまつわる信仰の話。

【令和5(2023)年7月1日 加筆版】

はじめに

ごきげんよう。本日(投稿日)は、山の日。
平成28(2016)年に制定された「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」という趣旨の国民の祝日でございます。

【追記】
7月1日は「富士山 山開き祭」が執り行なわれる日でございます。
令和5(2023)年は、御縁深き庚申(かのえさる)の日と重なるめでたき日となりました!

筆者は、以前に富士山山開きのお祭り時に某神社様にて助勤(お手伝い)奉仕を致したところからご縁がはじまり、自宅の神棚にてしんさつ(おふだ)をおまつり致しております。

このことから、毎月、御縁日であります「さるの日」に、
しんおん感謝のお祭りを行っております。

本日は、日で割り振られております「十二じゅうに」(年・月でも割り振られています) によりますと「さるの日」にあたる日なので、
本日、まつりをおおさめいたしました。

【余談話】
じっかんじゅう」() で申しあげますと、
本日は「ひのえさる」の日でございます。

じっかん
きのえきのとひのえひのとつちのえつちのとかのえかのとみずのえみずのと

十干は、古代中国にて、10日間を一区切りとして「いちじゅん」と呼ばれ、1日ずつ名前をつけられたのがはじまりといわれておりまして、現代でも、月を10日に分けて「○月上旬」などと、上・中・下旬と区切られて呼ばれているのは、こちらの名残であるとのことです。
のちに「いんようぎょう」説が結合され、日本では、十干をさらに2つずつに区切られて独自の読み方がなされております。

【十二支】
うしとらたつうまひつじさるとりいぬ

この十干と十二支を組み合わせているものが「」と呼ばれています。ちなみに次のさるの日は、8月23日で「つちのえさる」となります。


【余談話】旧暦の7月は「さるつき」または「しんげつ
(けんしんげつとも) の異称もございます。

本日(投稿日)は、れいほう・富士山の御縁日と、
祝日・山の日とが重なりました日でございますので、
富士山にまつわる信仰のお話をしようと思います。

富士山は、第37回ユネスコ世界遺産委員会において、
「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名称のもと、
平成25(2013)年6月、世界文化遺産に登録されました。


富士登下山の注意事項

富士山は、日本最高峰の標高3,776m
その高さは、東京スカイツリー約6本分、
東京タワー約11本分といわれております。

近年では、当日の思いつきや軽いお気持ちで
弾丸登下山をする方々が増加しているというお話をよく見聞きします。

富士山は、レジャー・ハイキング感覚で
簡単に登下山できるお山ではありませんので、ご注意ください。
(その他のお山もそうですが…)

マスメディアなどで報じられているのを見聞きする機会が
ほとんどないことは誠に残念なのですが、
下山する時が一番危険です。


また、こちらの動画もあわせてご視聴ください。

「静岡SBSテレビ放送」が登山客を守る救助隊に密着した動画
(視聴時間 約5分)

配信元:YouTube『SBS(静岡放送)news 6』チャンネル
令和4(2022)年7月27日配信

(視聴時間 約5分)
『弾丸登山』『軽装』遭難相次ぐ富士山…8月は去年の6倍 
静岡県警はSNSに映像アップして注意呼びかけ
「標高が上がると荒れるのが山」

配信元:YouTube『静岡朝日テレビ ニュース』チャンネル
令和4(2022)年8月22日配信

登下山前の注意事項が書かれているサイトをご紹介いたしますので、
富士登下山をお考えの方は、ご一読ください。
何卒、事故のないようご準備と体調にお気をつけくださいませ。

『富士登山オフィシャルサイト』より
 
登山の前に必ず知っておくこと

『静岡県警察 公式サイト』より
 
富士登山の注意事項

静岡県富士宮市役所 ホームページ』より
 富士登山における注意事項

『@yamanashi ホームページ』より
 
富士登山の注意点?


御祭神について

主祭神は
「このはなのさくやひめのみこと」様
「このはなさくやひめのみこと」様とも申します。

そのほかにも「浅間大神あさまのおおかみ」「浅間大明神」などの別称もございます。
神仏習合時には「富士権現」「浅間権現」(大権現とも)「せんげん大菩薩」などとも称されておりまして、
そのほかにも様々な名称がございます。

容姿うるわしく、御名は富士山の美しさを桜の花にたとえた事によるとも言われております。主な御神徳は、安産・火防ひぶせ(防火)など

どう5(712)年に成立した
日本に現存する最古の書物であります『古事記(こじき)』では、
このはな
別名は「かむ

『古事記』とは
げんめい天皇の和銅五年(七一二)にせんじょうされた…古くは「フルコトブミ」とも呼ばれ、「古の事(辞)を記した書物」という意味。選録したのはおおの やす。記巻頭の安万侶による序文によれば、天武天皇が選録させ、
舎人とねり稗田ひえだのしょうしゅうさせていたていとを、当時の元明女帝の命令によって安万侶が筆記したもの。
誦習とは、記録されていない諸伝承を神話として誦することであったと思われる。
(筆者註:序文によると、おおの やすが筆記する際、大和言葉の読み方の音を軸に、音にあてはまる漢字を当て字にしながら書かれておると述べられております)

出典:國學院大學日本文化研究所編『縮刷版 神道事典』(9刷)
549ページより引用

ようろう4(720)年に編纂されました、
正史の『日本書紀』では、「木花開耶姫このはなのさくやひめ
別名は「かむ鹿ひめ」などと表記されており、その他にも複数の別名がございます。

『日本書紀』とは
げんしょう天皇のようろう四年 (七二〇)にせんじょうされた…律令政府の公的事業として天武十年(六八一)から三十九年をかけて天武天皇の第三皇子舎人とねり親王 しんのう以下多くの官僚や史官が完成させた日本最初の正史。漢文で書かれ、中国の古典と歴史書からの多くの引用が含まれる。資料とされた漢籍としては『魏史』『史記』『漢書』『後漢書』『文選』などがある。

出典:國學院大學日本文化研究所編『縮刷版 神道事典』(9刷)
550ページより引用

父神様は、山の神「大山祇神おおやまつみのかみ(おおやまづみのかみ とも)」様
夫神様は、てんそんぎのみこと様 姉神様は、いわながひめのみこと様 御産みになられた御子神様は、火照ほでりのみこと(海幸彦)・りのみことりのみこと(山幸彦)

【註】
火遠理命の別名は、あまみのみこと
火遠理命の御孫神様が、初代・神武天皇へとつながる系譜となっております。

御子神様の漢字表記については『古事記』によりました。


富士山頂の奥宮をお祀り致しますところは
静岡県富士宮市に鎮座します
全国約1300社ございます浅間神社の総本宮の
富士山 本宮浅間大社」様

お祀りされているお宮(神社)様によっては、
「木花之佐久夜毘売命」
「木花開耶姫命」
「木之花咲耶姫命」
などの御名表記がなされております。

大山祇神(大山津見神・大山積神 表記も)、瓊瓊杵尊、磐長姫命、御子神様等の神々を合わせてお祀り(ごう)されているお宮もございます。

富士信仰にまつわるお話

日本では、古くから山を神として畏敬・崇拝されてきました。
富士山は、霊峰として畏敬され、麗峰としてその御姿が讃美されまして
信仰の対象として崇拝され、おろがまつられております。

その富士信仰につきましては、
『神道事典』から引用してみたいと思います。

富士・浅間信仰
富士山・浅間山に対する信仰。
「浅間」はアサマと読むのが古い呼び方。富士山があさと称された理由については、「あさ」「あそ」の語が火山や噴火などの意味をもつことに求める説などがあるが、定説はない。なお、長野県のあさ山、三重県のあさ山に対してのアサマ信仰もある・・・また、『万葉集』には「くすしくもいます神」と歌われており、神格化した富士山の信仰が古くからあったことがわかる。

『富士本宮浅間記』はさかのうえのむらが大同元年(八〇六) に富士神を山宮からさんろくせんし、富士山本宮浅間神社が創立され、水源の神・火山の神としてのあさ神の信仰が成立し神階※しょうじょした。

また、あさ神は国(山梨県) にもまつられた。平安時代末期からは真言しゅげんや山岳宗教と習合して発展していった。

【筆者註】「あさま」が「せんげん」と称されるようになったのは仏教の影響からと言われております。

富士山に登ることも信仰の体現であった。聖徳太子やえんの小角おずぬが富士山に登った伝承があり、『富士山記』の記述から、平安時代末期にはすでに登山した者がいたようである。しかし登山が盛んになるのは室町時代からで、富士登山を勧めるためのさんけいまん図も制作された。他方、富士は理想郷としての信仰をも唱導もしていたことが『神道集』からうかがえる。

修験系行者の長谷川かくぎょうは江戸で布教して信者を集めたが、のちに村上光清とじきぎょうろくの二派に分かれた。富士講が形成され、登山口にはせんだつが宿泊施設を設け、彼らの活躍により富士はいはますます盛んとなり、江戸市中には富士塚がつくられるに至り、多くの江戸市民がそこに登った。「ふじ」の地名や浅間神社は富士山が見える所に多いという特色をもったが、それらの分布で御師などの活躍も知られる。

【筆者註】各地にある「富士見」の地名は、富士山が見える地であることから名付けられているとのことです。

鎌倉時代には、富士のひとあなは浅間大菩薩の御在所と意識され(『吾妻あずまのかがみ』) 、たいないめぐりが盛んに行われるようになった。以後「人穴そう」が流布し、草子(筆者註:書物)を読むか 話をちょうもんしたりすることで富士登山をしたと同様のやくがあるがあると説くようになった。

出典:國學院大學日本文化研究所編『縮刷版 神道事典』(9刷)
327~328ページより引用

※神階(しんかい)
諸神に対して神単位で朝廷から与えられた位階を「しんかい(しんとも言う) 」と申しまして、「しょう一位いちい」などの位が与えらておりました。
一例としては、稲荷神社にて「正一位」ののぼりがあがっていることがよく見られるかと思います。

日本の官撰(かんせん)の歴史書『六国史(りっこくし)』には、
富士山をまつる・富士山の神に神階(階級)を与えるという記事があります。にん寿じゅ3(853)年、富士山の神をみょうじんとして霊験あらたかな神々のひとはしらとして「じゅさん」の神階が授けられたことにはじまり、その後に昇叙(しょうじょ)していき「正一位」となりました。

富士山について詠まれた和歌

上掲引用文を読みますと、日本に現存する最古の歌集であります
まんようしゅう』に、富士山についてまれた和歌があるとのこと。

たのしい万葉集』ウェブサイトによりますと、
富士山を詠んだ歌は「11首」あるとのことで、それらの歌がまとめられておりましたので、以下に添附いたします。

富士山を詠んだ『万葉集』の歌集

引用文で「くすしくもいます神かも」とまれていると説明されている和歌は、奈良時代の歌人・高橋たかはし蟲麻呂のむしまろが詠んだ歌で、
まんようしゅう』第3巻の319番に収められております。

こちらの319番の和歌を、手元にあります
岩波文庫『新訓 万葉集 上巻』より引用します。

こちらは古書店で入手しました。
現在は『新訂 新訓万葉集 上』 (ワイド版 岩波文庫) が入手しやすいようです。
その他出版社からも現代語訳付のものなど出版されております。

じのやまむ歌一首いっしゅ ならびに短歌(28)

(319) なまよみの くに うちする 駿するくにと こちごちの くにのみなかゆ てる 高嶺たかねは 天雲あまぐもも いきはばかり とりも とびものぼらず もゆる火を 雪もちち ふる雪を 火もちちつつ 言ひもえず 名づけも知らず くすしくも います神かも 石花の海と 名づけてあるも (28) その山の つつめる海ぞ かわと 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ もとの やまとのくにの しづめとも います神かも たからとも なれる山かも 駿河するがなる 高嶺たかねは 見れどかぬかも

【筆者訳】
甲斐の国(山梨県)・駿河の国(静岡県)とあちらこちらの国の真ん中にそびえ立つ富士の高い山は 天雲も行くのをためらい 飛ぶ鳥も頂上まであがれず 燃える火を雪で消し 降り続いた雪は火で消しながら 言いようもなく 名付けようもなく 神秘な神でいらっしゃる ※せの海と名付けてあるけれども 富士の山が包み込む湖なのだ  富士川と呼んで人が渡る川も 富士の山の水の激流なのだ 日本の大和の国を鎮護する神でいらっしゃる 
とうとんで大切な宝ともなっている山なのだなあ 駿河にある 
富士の高い山はどれだけ見ていても見飽きることはありません

佐佐木 信綱 編『新訓 万葉集 上巻』
(岩波文庫、1992年、第81刷)
127ページより引用

の海
当時、富士山の北側のふもとにあった大きな湖。
平安時代に編纂された歴史書『日本三代実録』によりますと、
じょうがん6(864)年に富士山で大規模の噴火がおこったのち噴火は数年続き、山の北のふもとから流出した溶岩流は、「の海」の大半を溶岩で埋め、残ったすみが、山梨県富士河口湖町にある「西湖」と「精進湖」になったと述べられております。

その後にも、富士山を詠んだ歌は、
平安時代初期に編纂された最初の勅撰(ちょくせん)和歌集『古今和歌集』や鎌倉時代初期に編纂された勅撰和歌集『新古今和歌集』などにも収められてございます。

上記の和歌では「」という見慣れない漢字が用いられております。

「ふじ」に対する漢字は、現在では「富士」が多く「冨士」もあったり、
上記の「不盡」や「不二」「不尽」「福慈」など様々な表記があります。

【余談話】漢字表記の話で思い出しますことは、筆者が山開祭時の助勤奉仕(お手伝い)をしていた際に、ご参拝の中年のご婦人から、「こちらで使われていた社名の漢字は昔はこうだったのだから、本来の漢字に改めなさいよ」というようなことを言われたことがあって、私にそのようなことを言われても……と困ったことがありました。あとになって調べてみますと漢字の表記は様々あり、漢字は外来語なので音の読みが大切なのだということを知り、勉強になりました。

このように神社で助勤奉仕をしている際、ご参拝の方などからご質問等を受けたことにより、
知らずに返答できなかった事など、あとでお調べして勉強になることが多々ありました。

信仰形態について

大昔から、富士山は噴火や溶岩の流出を繰り返していたので、
恐ろしくも神秘的な山として、遠くから拝む「ようはい」の対象でありました。

富士宮市に鎮座する「山宮浅間(やまみやせんげん)神社」様は、
富士山から流れ出て固まった「青沢溶岩流」と言われる溶岩流の末端に
「富士山遙拝所」のみがある、いにしえの祭祀形式が残っている神社様でございます。

静岡県富士宮市 ホームページ』によりますと、
「遙拝所は溶岩流の先端部に位置し、遙拝所の周囲には溶岩れきを用いたせきるいめぐっている。遙拝所内部の石列は、主軸が富士山方向に向いている。」と述べられております。

富士山本宮浅間大社」様も溶岩流の末端に鎮座しております。

富士信仰の歴史は、1万5千年前から紀元前数世紀にまで及ぶ
縄文時代にまでさかのぼるそうで、旧石器時代末期から縄文時代の頃の
富士山は盛んに噴火していたそうです。

富士山の周囲にあった縄文時代の遺跡には、
富士山を意識した配石遺構(いこう)が複数あるとのことで、
静岡県富士宮市ある遺跡では、およそ1万8千年~8千5百年ほど前の
大鹿窪(おおしかくぼ)遺跡」と、4,800年~4,500年ほど前の
千居(せんご)遺跡」には、富士山に直角となるように石が配列されているそうです。

山梨県市にある遺跡では、
縄文中期から弥生時代にまたがる「牛石(うしいし)遺跡」には、
富士山が見える場所にかんじょう列石れっせきを造っていた跡が残ってるとのことで、
考古学者方は、これらの遺跡を富士信仰の起こりと考えられているとのことです。

日本の記録に載っているところによると、
奈良時代までに富士山は大噴火を繰り返しているとのことで、
平安時代初期に編纂された官撰(かんせん)の歴史書の『日本後紀』や
『日本三代実録』などにも「富士山ゆ」との記録が残っているとのことで、噴火が続いたため、朝廷から各地の浅間神社に奉仕する神官などに対して「お祀りの仕方が悪いから富士山が怒ってたびたび噴火するのだ。だからもっとしっかりと富士山を大切にしてお祀りするように」というような内命が出されたとのことで、このあたりから各地の浅間神社の官位をだんだんと上げていくような対策がとられていたとのことです。

富士山の噴火は、江戸時代の宝永4(1707)年の大噴火後、
現在に至るまで噴火しておりません。

このような経緯で富士山周辺にお祀りされた浅間神社につきましては、
こちらの地図をご参照いただきますと、このような形でお祀りされるようになりまして、その周辺の村々にもお祀りされて、関東をはじめその周辺でも神社が建立されてお祀りされていくようになり、富士信仰はだんだんと広がっていったそうです。

噴火の威力/参考動画集

平成22(2010)年3月から噴火活動が活発化して現在も継続している、
アイスランド共和国にある火山にて、今月8月3日再噴火したとのことで、
様々な視点からの動画が複数あげられておりましたので、添附いたします。

視聴時間 52秒

配信元:YouTube『AFPBB News』チャンネルより

視聴時間 46秒

配信元:YouTube『ロイタージャパン』チャンネルより

 視聴時間 24秒

配信元:YouTube『ユーツベ 放送局24 REDチャンネル』より

視聴時間 40秒

配信元:YouTube『ユーツベ 放送局24 BLUE チャンネル』より

視聴時間 1分38秒

配信元:YouTube『Insta360 japan』チャンネルより

視聴時間 約5分

配信元:YouTube『ICELANDiaTV』チャンネルより

信仰成立の流れ

信仰者にとって、富士山は御神徳をはいしながらおまいりします「はい」するお山でありました。

平安時代末期から鎌倉時代にあたる12世紀頃より富士山の噴火活動が沈静化したことで、日本古来の山岳信仰に基づいたしゅげんどうの道場として修行される場所ともなり、修験者などが山中に分け入り修行するお山となっていきました。

修験道は、原始山岳信仰をもとに奈良時代から芽生えはじめ、
仏教、密教、道教、陰陽道などの諸宗教の影響を受けて成立した日本の民族宗教のひとつでありまして、山岳修行をして超自然的能力を獲得し、それをもとに様々な救済活動を行っております。しゅげんの名称は、山岳の修行を通して神仏の御加護を賜りまして、神仏のたえなる力のげんりき(術) を得るということに由来し、「修行得験」「修呪得験」「修密得験」「実修実験」などの略称であるともいわれております。

古くは「さん」、通称「やまぶし」と称されてきました。
修験の修行者は、山中にこもり、山にして厳しい修行をいたしますことから、「やまぶし 」と呼ばれております。このほかにも、しゅげんやまぶしは、山のひじりげんじゃ(げんざ とも)、ぎょうじゃなど、様々な名称で呼ばれております。

平安時代に入って修験道の形が作られていき、富士山だけでなく出羽三山などの山々の山林・山中を修行の場とする修行者が次第に多くなって集団化するようになっていき、平安時代末期には、各地の霊山が修行者の修行道場として広く知られていくようになりました。

平安末期に編纂された歴史書の『ほんちょう世紀せいき』には、
富士山しゅげんどう(村山修験)の開祖と言われております、まつだいという僧侶が、
富士山に数百回登拝した上で、きゅうあん5(1149)年、山頂に大日寺をこんりゅう。御経を埋納されたと記されており、その後、修行する修験者が大宮・村山を拠点として集まるようになり、村山口の登拝道からの入山が盛んになっていったそうです。

また、山梨県南アルプス市に鎮座する「江原浅間神社」には、
平安時代の11世紀に造られたと考えられている御神像・女神木像が安置されておりますことから、この頃には富士山信仰がなされていたことがわかります。

中世(12世紀末~16世紀)には、富士山麓で修験道は広く行われていて、
近世(16世紀末~19世紀半ば) の江戸時代には、冨士信仰を教義化した
かくぎょう(1541-1646年)を開祖とする、修験道に基づく独自の信仰形態であります「富士こう」が江戸を中心とする庶民へと広まっていきました。

こう」とは、同じ信仰を持つ集まりで共通の目的のために組織される団体のこと。

角行5世代目の弟子で中興の祖ともいわれております、じきぎょうろくという方が、油売りの行商(油問屋)でなんとか生計を立て、油を売りながら身なり構わず江戸の町々で実践論理や男女平等思想などの布教活動を行っておりました。きょう17(1732)年に「享保のだいきん」が起こったことを受けて、世を救うため、
享保18(1733)年に富士山七合五しゃく(現在は八合目) いわのかたわらで、旧暦6月から7月にかけて、だんじきして御入定(にゅうじょう)されました。(享年63歳)

ちゅうじきぎょうろく(1670-1733年) 本名は、伊藤 伊兵衛いへえ
13歳で上京奉公後、商人として成功しておりましたが、角行の第四世代の弟子・げつぎょう(1643-1717年) の弟子となり修行をしていく中で、ちくざいは悪と悟ったのち、商いで得た多額な資産を親族縁者や奉公人に分配したのち商売を廃し、家族を連れて本郷か小石川(東京都文京区)の裏長屋に住んであぶら問屋どんや(菜種油や髪油、明かりに使う油などを桶に入れ天秤で担いで売り歩いた)を営みながら布教活動を行いました。

身禄の教えは、角行の教えを踏襲した考えの中に独自の思想の平等思想などが組み込まれ、その教えを執筆されておりましたが、書籍の内容は難解であったそうです。

【以下 参照写真】
富士山烏帽子岩(5枚目)

資料元:「東口本宮冨士浅間神社」インスタグラムより

食行身禄が自らが入定して人々を理想世界へと導こうとしたことへの評価と、お弟子さんたちの布教努力によって、江戸市中とその周辺に数多くの富士講が組織されていくようになり、ぶんぶんせい期(1804~30年)には、
富士信仰は最盛期となり、富士山登拝を目的とした「富士講」が江戸を中心に爆発的に流行し「江戸八百八町に八百八講 講中八万人」などと言われるようになり、てんぽう期(1830~43年)になると、江戸市中だけでも百種以上の富士講が存在するまでに至りました。

【富士山登拝の御様子の参照一資料】
富士山登拝

資料元:『冨士道 神道扶桑教』公式サイトより

近代になると、明治初年の神仏分離・修験道廃止によって衰退を余儀なくされ、宗教制度の変革に伴い組織化の必要を迫られたため、教派神道各派の
扶桑教(ふそうきょう)、実行教丸山教などの中に組み込まれていきました。

そうしたなかで、明治時代以降には、外国人登山者の登場と、近代的な教育制度への変化や、鉄道整備等がなされていったことにより、学生の集団が登山するようになり、アルピニズムや観光といった考え方が持ち込まれたことにより「はい」から「登山」するお山へと変化していきました。

こうした背景もあって、富士講は明治末期あたりから徐々に衰退していき、
昭和初期になると富士講が行われなくなった地域がいくつも出てくるようになり、戦前には富士山登拝はなされなくなっていきます。

昭和20(1945)年、戦後の「宗教法人令」が公布されたのちは、
系譜を異にする多数の修験教団が独立いたしまして、現在に至っています。

現在、途絶えてしまったお作法や行法など古流の修験を復古させようと、
たゆまぬ御精進をなされている修験道の一寺もございます。

また、神仏習合時の祈祷や諸作法などを復古させようと、
たゆまぬ御精進をなされている神職方もおられます。

富士講は、昭和30年代には最後の登拝とする講も出まして、
その活動はほとんど行われなくなったとのことで、
現在では小数の講のみが残っています。


富士山の登拝について

昔は、富士山登拝者は限定されておりました。
霊峰であるお山に登って修行を積むこと、参詣することが主な目的であったことから、修行者は入山前に100日間、水垢離(みずこり)などの精進潔斎をしておきよめする修行をしてから登拝するという決まり事がありました。

富士山での修行は、毎年、旧暦の7月22日~8月2日まで山籠りをいたしまして、翌3日には 駈(か)けて須走すばしりへ下り、東側のふもとの各地をめぐっていたそうです。

都内の一冨士講員さんから伺ったお話によると、
けおりながら下山すると30分かからず下山できるとのことでした。

近世になり、開祖・角行の弟子の行者により広められ、江戸を中心に起こった「富士講」というグループ組織の発展から、信者の庶民も登拝するようになっていきます。

信者は日々の生活の中で定めた戒律を守ることにより、
7日間の潔斎で登る手配がなされたことにより発展していきますが、
当時は徒歩で富士山を目指し、富士山北口の吉田口から登拝しました。

このため行中期間は長く、往復の交通費や宿泊・飲食代や入山料など
多額の費用を要しました。このため必要となる費用を大勢から集めて、
登拝者を少人数に割り当てながら時間をかけて全員に回していく
無尽(むじん)」という集団的な金融システムが富士講内で出来あがっていきました。

また、近世までは女人による霊峰等の登拝は禁制でありましたが、
江戸時代になると、庚申御縁年※には、富士山により、女人が途中まで登拝できる緩和策がなされておりました。その後、富士講の信者である、
高山たつという女性が、不二道の開祖である小谷三志(1765-1841年)の尽力によりまして、天保3(1832)年に男装して登頂を果たしました。

※庚申御縁年(こうしんごえんねん)について
富士山は、紀元前301年かのえさるの年に姿を現したという伝説に基づき、
60年に1度のかのえさる(こうしん)の年は、富士山の御縁年として奉祝されまして、多くの人が富士山に登りました。この年は、1回の登拝が33回に相当するほどのご利益があるとされ、女人の禁制も緩和されたりしたため、特に登拝者が多かったそうです。また12年に1度の「さる年」を「えんねん」と呼び、めでたい年とされております。 

次のかのえさる(こうしん) の年は、18年後の令和22(2040)年です。

富士塚の話

そうした中で、登拝が困難な高齢者・女性・子供たちに向けて、
体感的な富士登拝のお詣りしてもらい富士信仰を広めていこうという、
講中(こうじゅう)方のおもいから、安永8(1779)年には、高田(東京都新宿区)に鎮座する水稲荷神社の境内に模造(小型)の富士山を築造した
「富士塚」(通称:高田富士)が建立されましたことにより、江戸各地に富士塚の築造が流行していきました。

【註】高田富士は昭和38(1963)~39年、早稲田大学の拡張に伴い、
当時の水稲荷神社の社地を早稲田大学が購入したため、富士塚は崩されました。これに伴い、水稲荷神社は移転することとなり、区立かんせんえん公園横(新宿区西早稲田3丁目) へせんされまして、現在の水稲荷神社境内にて復元されました。

この富士塚築造の流行は、明治・大正・昭和時代になっても続いたそうで、
東京23区内だけでも約40が建立されているとのことです。

近年では、世界遺産登録がなされたこともあって、
新たに富士塚が建立されたり、改修される神社様もございました。

【参照ニュース動画】

視聴時間 約1分

配信元:『TOKYO MX』チャンネルより
平成28(2016)年6月20日放送

富士塚の基本的様式といたしましては、
富士山の溶岩を運び入れて塚の各所に安置しまして、
山頂には富士山のお土を埋めたのち、浅間神社奥宮の石祠を建立し、
五合目には小御嶽神社の祠、七合五しゃく烏帽子岩えぼしいわの位置に立石を安置して、山麓さんろくには胎内洞穴(たいないどうけつ)をかたどった横穴を設けるといった様式となっております。

この塚は、富士山の遙拝ようはい所または代理登拝の場所としての性格をもちまして、江戸時代当時は旧暦6月1日に執り行われておりました、
富士山山開き祭の当日には、各家はお山を遙拝し、こうじゅう(神社・寺院に参拝・祭りに参加する講の人達)は、白装束のぎょう金剛杖こんごうづえを持ちまして、近隣7カ所の富士塚を巡る「七富士参り」という模擬登拝が行われていたそうです。

江戸では、こまごめ(東京都文京区)に鎮座する
駒込富士神社」の富士塚が、富士講のなかで有名であったそうです。

このことは、食行身禄がこの周辺に在住していたからとも言われております。ちなみに、食行身禄の御墓は、文京区にある曹洞宗 海蔵寺にございまして、区の指定史跡となっております。墓参したことがあるのですが、富士山の溶岩で築造されている独特な御墓で、左側には稲荷社がお祀りされておりました。

駒込富士神社の御由緒によると、最初は駿河(静岡県)の富士浅間大神を勧請(かんじょう)して別地にてお祀りされておりましたが、寛永5(1628)年頃、
境内にある古墳跡といわれている小高い丘の上にせんされて社殿が建立されておるとのことで、富士講が盛んになり、富士講崇敬者によって支えられてきた経緯があるとのことでした。

このことから、駒込富士塚は、もともとあるお塚に富士山の溶岩などが安置された形式でありますことから、高田富士のように最初から築造された
富士塚ではないとのことでした。

駒込富士塚は、一年中登拝できる富士塚で、他の地域でも年中登拝できるところもあるのですが、現在でも御門が設けられ富士山山開き祭の時のみ、開門されて登拝する形式の富士塚もございます。

江戸時代後期に刊行された江戸の年中行事が記載されている「東都歳時記」や江戸地誌「江戸名所図会」 江戸実情雑記「江戸風俗惣まくり」などの書物には、毎年の祭礼日6月1日の前日より駒込富士神社には多くの人が参拝したと述べられております。

江戸地誌「江戸名所図会」による駒込富士詣図
『文京区神社誌』より引用

文京区神社誌』の史料によりますと
「東都歳時記」には

六月さくじつ(筆者註:朔日は 1日)
○富士参前日(五月晦日)より群集す、(是冨士禅定の心とぞ、駿河国富士山は常に雪ありて登る事を得す、故に炎暑の時を待て登山す、是にならひて今日参詣するなり) [中略] 都て石をたゝみて富士をつくる事 近世の流行なり…

『文京区神社誌』351ページより引用

「江戸風俗惣まくり」には

富士祭 富士祭は駒込・浅草こそ昔より賑わひて、中昔より高田・目黒とも祭る日は かはれど、いさゝか群集の意を顕はしぬ、(中略)  此不二祭につけていふ、寛政度始まりたるは駿洲登山の者 白き行衣ぎょうえを着、いらたかの数珠を是にかけて不二講の焚上げといふ事を行ふ、是は危急の病床に全快を祈るとて、火を焚き不二の掛軸かけて鈴をふりたて祝詞のりとの如く衆人よって同音声高に唱ふる…

『文京区神社誌』351ページより引用

と当時の御様子について述べられております。


現在の駒込富士神社では、毎年6月30日・7月1日・7月2日の3日間、
富士山山開き大祭」が行われていて、7月1日に大祭が斎行され、
8月28日には、山じまいの「鎮火祭」が斎行されております。

【参照写真(撮影:筆者)】

駒込富士神社 富士山山開き大祭日
筆者が大祭当日に参拝した時のお写真です。
境内には露店が沢山並んでおりました。
(お写真は筆者が大學在籍時、江戸の富士信仰についてお調べしていた時のものです)
駒込富士塚
写真は男坂、右手奥側には女坂がありました。
大祭日は男坂から登り、女坂から下山します。
諸事情でお登り叶わない方々は、お写真山下にあります
お賽銭箱の前にてお参りできるようになっております。
駒込富士講奉納のまんどう
6月30日の午前中に町内を巡り山頂に奉納されます。
万灯奉納後より、おふだ・御守・縁起物のお授けがなされ
山下の社務所にて「大祭記念御朱印」のお授けがなされております。
こちらの万灯奉納は、江戸後期刊行「武江年表」よると、
天保2年6月に鉄砲洲てっぽうず船松町(東京都中央区)より
花万灯の奉納がはじまったと述べられています。
駒込富士神社・冨士講の方々
お写真は万灯奉納後の御拝礼時。おそろいの浴衣が素敵です。
駒込富士神社は元から氏子を持たない神社とのことで、
現在は、駒込天祖神社が兼務(管理)しており、
富士講は天祖神社氏子有志の方々により維持されているとのことで
講員方の高齢化により講員数が減少しているとのことでした。
駒込富士神社「鎮火祭」(撮影:筆者)

また、山開き大祭当日の富士まいりで、
富士塚を登拝するぎょう姿の富士講の方がいらっしゃいました。

【参照写真(撮影:筆者)】

都内で活動されている一富士講(撮影:筆者)
撮影当時、ネット上で公開する前提で撮影の御許可を頂きました。
最初におおはらえことばをお唱えされておりましたが、
独特の音程と節回しで神社で奉唱する大祓詞とは異なる祝詞のりとも間にお唱えされておりました。
富士講のぎょう(撮影:筆者)
御許可を頂き撮影させて頂きました。
講者さんのお話によると、富士山へ登拝するたびに御朱印など押印頂いているとのことでした。
その節は、撮影のご協力を頂きまして誠に有難う御座居ました。拝

江戸時代では、以上のような形式で富士登拝がなされておりましたが、
明治5(1872)年には、太政官布告98号「神社仏閣の地 女人結界の場所を廃す」が3月27日に布告されたことによって、女性も富士山をはじめ霊峰への登山参詣等ができるようになり、現在に至っております。

【参照資料】明治5(1872)年3月27日
太政官布告98号「神社仏閣の地 女人結界の場所を廃す」(コマ番号110)

資料元:『国立国会図書館デジタルコレクション


現代の富士山の登拝で思い出します事は、
天皇陛下が殿下であらせられました時の
平成20(2008)年8月7・8日の両日、富士山へぎょうけいあそばされまして初御登頂なされましたことが、特に印象に残っております。

当時のニュース記事

記事元:『四国新聞社』ウェブサイト(平成20(2008)年8月8日)付記事より

御視聴時間 約2分

配信元:YouTube『安倍晋太郎 チャンネル』より

現在の富士登下山の問題ついて(8/12追記)

富士山が世界文化遺産登録されましたことにより、
より一層、観光目的などで富士山を訪れ、
登下山される方が増加しておるところなのですが

富士山の8合目以上は
富士山本宮浅間神社・奥宮の境内地
となっております。

【富士山本宮浅間神社様より本年のお知らせ】

富士山本宮浅間神社』公式サイト「お知らせ」より

また、北口本宮冨士浅間神社様の公式サイトでは、
このようなお知らせがなされております。

北口本宮冨士浅間神社』公式サイト「富士山について

上掲お写真の一番下に書かれていることは
神社様からの大切なお願いなので重複します。

本来は、麓から、登山道起点に鎮座する神社にお参り頂いて、登山を開始することが望ましい形です。神の山である富士山に、その神域に「これから入らせて頂きます」というご挨拶と、道中の安全を祈願し、心身を清浄にしてご登拝ください。


北口本宮冨士浅間神社様でも申されている通り、
富士山では、登山者が増加したことに伴い、登下山中のゴミ投棄や麓周辺の不法投棄や汚物による環境の問題があります。

『環境庁ホームページ』の「世界文化遺産『富士山-信仰の対象と芸術の源泉』における環境省の取組について」の記事によりますと、昭和54(1979)年頃から、国、山梨・静岡の両県、地元市町村、民間団体等による清掃活動がはじまり、現在も継続して取り組まれていることにより、山岳部のゴミは減少しているとのことですが、現在でも完全な解決にまで至っていません。

【参照一資料】
富士登山オフィシャルサイト』平成30(2018)年8月17日付記事より
富士山のゴミ、少しの気遣いで減らせます!

富士山クラブ 公式サイト』平成30(2018)年11月8日付記事より
ごみ問題は今

現在でも、登下山者が不要となった物を山中に投棄する行為はなくなっておりませんし、山麓周辺の不法投棄もなくなってはおりません。
また、富士山方面を目指す自動車による交通渋滞や、渋滞中に生じた不要と思われたゴミなどを道路に投棄する行為(使用済のオムツが投棄されていたり…)などの問題が生じておりますことから、現在では、富士山開山期間中はマイカー規制期間が設けられております。

このような現象が生じるのは、とても悲しいことでございます…
私も一崇敬者として、とても胸が痛みますので、お祭りの時は併せてお詫び申し上げております。


一参考資料サイト等のご案内

最後に、全体像をお知りになりたい方は、
富士山世界遺産公式サイト『世界遺産 富士山とことんガイド
富士山が世界遺産に選ばれたわけ〜 信仰と芸術と構成資産 〜
をご紹介いたします。よろしければご一読くださいませ。

静岡県富士宮市のホームページ』にございました、
児童向けの富士山にまつわる説明書は、
とてもわかりやすく解説されておりましたので、ご紹介致します。
よろしければ、ご一読くださいませ。
世界遺産富士山』PDF 

また、山梨県富士吉田市にあります、
ふじさんミュージアムウェブサイトをご紹介いたします。

お話は以上となります。
ご拝読ありがとうございました。奉拝


【参考文献】
國學院大學日本文化研究所編『刷縮版 神道事典』(弘文堂、平成23年9月、9刷)
平野 榮次えいじ『富士信仰と富士講』(岩田書院、平成16(2004)年11月)
大谷 正幸『図説!富士信仰 古代~近世初期編』(富士信仰アーカイブズ、2021年2月)
大谷 正幸『富士講とその講紋』(富士信仰アーカイブズ、2021年2月)