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【好きになる理由】外見で好きになることは内面で好きになることよりも軽薄、という間違った先入観について


外見で好きになる=軽薄で、人として恥ずべき行為で、あまり表立って言うべきことじゃない。

内面で好きになる=誠実で、きっと好きになった方も人格者で、相手の内面のどこを好きになったか語ることはとても素晴らしい。

この価値観が、あまりに当たり前のように「正義」として語られていることに違和感がある。

たとえば、「夢に一生懸命」「友達思い」「親を大事にする」「前向き」「ストイック」「思慮深い」「行動力がある」「礼儀正しい」「視野が広い」「ムードメーカー」など色々な内面のよさってあると思うのだけど、これらすべて、「じゃあ、そうじゃなくなったらもう愛されないの?」という強迫観念と隣り合わせだと思う。

極端な話、好かれている側からすると「若くて肌がすべすべだから好き」と同じ、時限爆弾式の「いつか嫌われるかもしれない」を内包しているように感じる。

内心で思っているぶんにはいい。でも本人の前や、公で口にしたとたんにナイフになるような恐ろしさがある。


逆に、「背が高いから好き」「瞳が大きいから好き」というのは、そうそう変わりようのない外見的特徴だから安心感がある、とも言えるのではないか。

「私が今後どのような性格になろうと、老いようと、私の瞳はきっと大きいよな」

「僕が今後、おじいさんになっても、この子よりも背が高いことは変わりようはないよな」

と思える。
背は、もしかしたら腰が曲がったらアウトなのかもしれないけれど、「どんなことがあろうと夢に一生懸命であり続けよう」と努めるよりも、「腰が曲がらないように姿勢よくしよう。運動もちょっとしたほうがいいかな」と努めるほうが、ずっと心理的ハードルが低いのではないか。

だから外見で好きになるほうが素晴らしく、内面好きは薄情、ということではない。
みんなが外見で好かれた方が幸せで、内面で好かれたがってはいない、ということでもない。

ただ、今はちょっと当たり前に正義とされすぎているように感じる価値観について、引いた視点を持つことで、影に押しやられている陣営の人たちを日向に誘ってあげてもいいのではないかな、と思う。


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