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議論にならない。



『議論』とは、【スーパー大辞林】によると、「それぞれの考えを述べて論じ合うこと」です。

『論じ合う』というのは「何かについて他と話す」「話し合いをする」という意味です。
ようするに根底にあるのは対話です。

さて、対話とほぼ同じ意味合いで使われる会話は、よく“キャッチボール”に例えられます。
言葉を投げて、受け止めて、返してを繰り返すからでしょうか。
でも、相手の言い分は聞かず、攻撃的な論調で一方的に相手をやりこめたりするのは、キャッチボールというよりボクシングじゃないですか?
SNSで見かけるその種の議論の多くは、わたしには後者に思われるのです。

拳の代わりに言葉を使った攻撃ですが、実社会でそんなことをすれば、必ず途中で仲裁する人が現れますよね。
無関係な他の人たちも一部始終をその場で見聞きしているのに、ぶっ通しで罵り合うなんて恥ずかしい真似は、ネットならともかく、リアルではそうそう出来ません。
言いたいこと言った後は嫌でも相手の言い分を聞くしかなくなります。
それによほどボキャブラリーに自信がないと、悪口雑言や誹謗中傷のネタもすぐに尽きて、間が持たなくなるだろうし?

ようするに、SNSでよく見かけるボクシングのような議論は、わたしに言わせれば議論じゃないのです。
相手の話は聞かないで、ひたすら自分のほうが正しいという主張の押しつけ合いに終始するアレは、単に相手の主張を論破するのが目的の“一方的な攻撃”だ思うのです。
まさしくKOを狙うボクサーの攻撃みたいなものでしょう。

それでもこれがSNS界隈だけのことなら、個人的には「やりたいひとだけで勝手にやってれば?」って思うのですけどね。
関わり合いになりたくなければ、そこへ近づかなければいいのです。
具体的にはTwitterとFacebook辺りから離れてしまえば、大抵はそれでカタがつきます。
リアルと違って、そうすればムカつく相手と道で偶然ばったり出会うこともないし、職場に行けば必ず顔を合わせるわけでもないですから。

多分にこれもネット上での誹謗中傷合戦が加熱しやすく、歯止めがかからなくなる理由のひとつなのでしょう。
リアルと異なり、相手も、そこにいて一部始終を見聞きしているギャラリーの姿も見えないから、際限なくボクシングができるわけです。


困ったことに今の世の中には、リアル空間でも平気でそれをやってしまう人たちがいます。
その多くは反社会的勢力などの特殊な人たちなのですが、最近ではいろんな職業の普通の老若男女の中にも“モンスター某(なにがし)”などと呼ばれる人たちが出現しています。
そして、そこにはもちろん一部の政治家も含まれます。

モンスター某は関わり合いになりたくなければスルーできますが、政治家はそうはいきません。
彼らの報酬がどこから出ているのか、たとえ政治家当人が忘れていても、税金を納めている有権者のほうはその事実を忘れたりしません。
政策の内容、ふるまいや言動のチェックが厳しくなるのは当然です。

選挙演説とは、本来は「自分が当選したらやろうとしていることを有権者に訴えかける」もののはずですが、街頭での演説中に現職の総理(当時)が有権者を「こんな人たち」呼ばわりしたのを機に、どんどん内容や扱いが変わっていきました。

安倍氏にとって、「こんな人たち=自分を支持しない人たち」だったのでしょうか?
あるいは群衆の一部を「こんな人たち=敵対者」と定義したか、もっとふんわりと、そういう心境や感覚だったのがうっかり言葉に出てしまったのか、そこまではわかりません。
わたしにはアレは「こんな人たち=自分に敵対する人たち」という構図を、彼の支持者たちにもわかるように明確に提示したかった、のだとしか思えませんでした。

別の言い方をするならば、彼は自分に敵対する者の言い分に耳をかす気はないことを態度で示して、そうやって「人々の分断を煽った」のです。
これはアメリカのトランプ氏も得意とした手法ですよね。

安倍氏の思惑はさておいても、これはとても現職の総理(当時)の発言ではないし、「失言を撤回します。スミマセンでした」では許されないレベルの失言でした。
実社会でこんな失態をやらかしたら、その後は「こんな人たち」というワードは完全に封印するのが普通ですよね?
安倍氏はそうしましたか?
彼の支持者たちはどうでしょう?

国葬問題をとりあげたSNSでよく目にしたのが、「国葬に反対してるのは“こんな人たち”」とか「“こんな人たち”が国葬を批判している」という類いのワードでした。
結構な肩書き自慢らしきひとなんかも使っていたので、密かに(この人アタマ悪そうだなぁ)と感心させられた(失礼)ぐらいです。


国葬反対を掲げた人たちに対して、そもそも彼らは何故このワードを用いたのか?

①自分たちが安倍シンパである証明と主張が目的?
②国葬反対派にとっての敵対勢力であることを誇示するため?
③“こんな人たち”というワードを反対派を嘲笑する目的で使用したかった?

この推測がどこまで当たっているかわかりませんが、これじゃあ議論になるわけがありません。
加えて、安倍元首相の国葬を控えた9月上旬には、「#国葬反対より外国人生活保護反対」のハッシュタグ付きのワードが唐突にツイッターを賑わせました。
これらの全てが、相手の主張に耳を貸す気がなく、真正面から受けてたって議論する気もない姿勢につながっている気がします。

これは「外国人の生活保護費は年間1200億円、国葬の費用と比較してどちらが無駄か」と主張するもので、この「1200億円」という金額は、2012年3月16日の参院予算委員会で、自民党の片山さつき氏が仮試算として挙げた額らしいです。

ようするに、全く関係のない外国人生活保護へと論点をすり替えることで、対立する国葬反対派の主張をかわしたり封じるのが目的だったのではないかと思われます。

こうした手段を好む人たちに共通しているのは、自分たちが多数派ないし強者の側に立ち、数の有利を意識した上で、論点をずらして反対派を排除する方向へ導く手法の乱用です。
どのように言い訳しようと、その姿勢は、「議論などする気もないし、その必要もない」と言っているようにしか見えません。

安倍政権によって培われ、もたらされた黒い遺産の数々の中でも、際立って悪質だと考えられるのがこの「議論の放棄」です。
不正を暴かれたり、徹底的に追及されることを回避するためには、議論するよりも問題の論点をずらして、あさっての方向から反撃するほうが、数の有利を活かせられるとでも考えてのことでしょうか?

だからとにかく議論はしない。
SNSを上手く使って論破攻撃と分断を仕掛け、やりたいことは自分たちだけで決め、反対や問題の多い政策は強行採決で通してしまう。
安倍氏によってもたらされたその手法は、いつしか当たり前のように後継者に引き継がれていますが、そんな黒い遺産はまっぴらごめんです!

『議論』とは「それぞれの考えを述べて論じ合うこと」です。
論じ合うことをせずに、互いがてんでに自分の考えを述べるだけ、相手の主張を論破するだけなら、どこまでいっても議論にはなりません。
これは与党だけでなく野党にも言えることで、野党の支持率が一向に上がらない理由のひとつだと思うのですが、自覚があるようには見えません。

相手の話も聞かなければ問題は解決しないことぐらい誰でも知っているのに、聞くことを放棄して即座に反撃するほうを選ぶ、議論も対話もしない人々がどんどん増えているようです。

これはSNSの普及と共に今現在も世界中で問題視されている傾向で、しかしSNSでは一方的な攻撃に対する自衛反応でもある部分が否めない以上、この先どんどん増加はしても減ることは無さそうです。
だからといって、政治家にまで、こんな代物が当たり前に通用すると思ってもらっては困ります。

政治家だからこそ他より多くの対話や議論が必要なはずで、そこを勝手に省略して自分たちに都合のいい政策ばかり実施したり、気に入らない相手や政策は好き放題に罵り、難癖をつけるのが当たり前というのでは、反社会的勢力と変わりません。

そうか!だから反社会的勢力やカルト教団と仲良くしたり、聞く耳を持たない政治家がこんなにも増えて、議論しないのが当たり前みたいな状況になっているのかも‥‥?
それでいいのか!?

あなたならどう考えますか?


これは、noteで互いにフォローし合っている菊地正夫さんが、『未熟(3の1)』というエッセイの中で、【note仲間の彩音幸子さんの記事】について書かれていた文章を読んで、触発されて書いたものです。

3の3で完結したエッセイの中で、わたしのコラムまで紹介されてしまって、事前に許可を求められたにもかかわらず冷や汗たらりの経験をさせてもらったので、リベンジ紹介させていただきました(笑)

合わせて読むと、それぞれのこだわりがよくわかっておもしろいかも?
お試しあれ。


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