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読み方を変えると、同じ本なのに違う印象になる不思議。


『スターマン・ジョーンズ』は、読み手しだいで別ものに変わるというたぐいのジュヴナイル作品です。

主人公のマックスは真面目で純朴、思うようにいかないときも、なるべく公明正大であろうといつも一生懸命で……こうくると、どんなつまんない文科省推薦図書かと思うでしょう?
たしかにストーリーは単純でありがちだし、展開もたぶんこうなるんじゃないかなぁという予想が大筋で外れることはないのですけどね。

単純に子供目線でそのまま読むとそういうお話なのですが、じつはこの作品はもう少し別の読み方もできるのです。

ポイントは、この作品の視点が一人称ではなく、三人称の主人公視点で描かれていることです。

物語はマックスの視点で進むのですが、『夏への扉』みたいな完全な一人称「ぼくの視点」ではありません。
「ぼく」の一人称だと、ぼくが見たり聞いたり感じたことしかわかりませんが、アニメや映画のように、登場人物みんなの視点やいろんなシーンを描くためには、複数の視点を可能にする三人称多視点を使う必要があります。

そして、この作品のように三人称で視点を主人公だけにしぼったものが三人称一視点です。
この三人称一視点の場合は、視点は主人公に固定ですが、読み手はマックスの視点と同時に、読者としての視点も持つことができるのです。
ようするにこの「ふたつの視点」を意識してどこまで深読みできるかで、物語の印象がかなり違ってくるわけです。


実際の場面を引用して違いを説明します。

マックスは降ってわいたような幸運から航宙士見習いとして始めることになったのですが、彼に親切にしてくれるケリーは、チームのみんなから技術の確かさを信頼されているのに、航宙士(恒星間宇宙船のパイロット)ではなく、サポートチームのチーフなのです。
マックスはそれが不思議で理由を尋ねてみたくなるというシーンです。

マックスはランディが話の聞こえないところに行っていることに気づいて話しかけた。
「チーフ、あなたはぼくがこれから学べるより多くのことをご存知です。どうしてあなたは、航宙士になろうとされなかったのです?チャンスがなかったのですか?」
ケリーは急にもの淋しそうになり、堅苦しい口調になって答えた。
「一度はそうなろうとしたよ……いまでは自分の限界を知ってるさ」
マックスはだいぶまごついて口を閉じた。それ以後ケリーは、ふたりだけになると、いつもかれをもとどおりマックスと呼ぶようになった。


©️ ロバート・A・ハインライン著 『スターマン・ジョーンズ』より引用

ポイントはラストの4行で、ここは一人称の視点であれば、「ぼくがどう感じた」かを述懐する場面となるはずです。
つまりその視点だと、マックス自身の心情を説明しないことには、自分がまごついているところはマックスには見えません。
が、物語は「三人称マックスの視点」というかたちをとっているので、読者には失言を悔いているマックスの心の動きと、失言を悟った彼が、だいぶまごついて口を閉じた姿の両方が見えているわけです。

要点をまとめると、マックスは考えなしの質問をしたせいでケリーの古傷にふれてしまい、どうやら言いたくないことを言わせてしまったようでした。
他意はなかったにせよ、これ以上なにか言うとまたケリーを傷つけることにもなりかねない。マックスはこのうえ謝ったり言い訳したりの余計なことはするべきではないと考えて、散々まごついた末に黙って口を閉じたわけです。
マックスはそういうやつなのです。


太字の部分は本には書かれていませんが、そこはおとなの読者なら、そこそこ読み取れるだろう部分です。
ケリーもそれを読み取ったからこそ、航宙士として序列が上になったマックスを、ふたりだけの時にはもとどおりマックスと呼ぶようになったのですから。
ケリーのこの行動こそが、あえて文字にされなかった部分を読み取るために用意されたヒントでもあるわけです。
ここが一人称と三人称主人公視点の違いです(たぶん)

こんなふうに、どういう視点を用いるかでマックスの視点だけでなく、彼と絡むことになる人々の目をとおして、マックスには見えない第三者から見た彼の為人(ひととなり)を、読者として眺めることが可能になるのです。
ここがわかれば、相手の言動やマックスへの態度から、その人物の為人なども見えてくるようになります。
そのためにハインライン先生は一人称でなく、複数の他者の視点が入りこむ三人称多視点でもなく、三人称一視点を用いてこの作品を描いたのではないでしょうか。


そうすると、一人称だとマックスが「コイツはぼくのことを嫌っている」とか「このひとは親切だから好きだ」と考える場面でも、マックスが彼のことなど眼中にもない人々からはぞんざいな扱いを受ける反面、きちんと正面からマックスを見てくれる相手からは不思議なくらい親切な扱いを受ける理由もなんとなくわかってきます。
年若く、世間知らずで純朴で、そのくせ礼儀や公明正大さを重んじるマックスの姿は、彼を外側から眺める年上の仲間や大人たちの目にはどのように映るでしょうか。

きっと自分もその年ごろだった頃のおもいや記憶など、さまざまな感情を呼び起こすに違いありません。
だからマックスに対して冷淡なふるまいにもおよぶ者もいれば、マックスの前では誠実であろうとしたり、彼をほおっておけなくなる衝動に駆られることに抵抗できなくなるなど、それぞれがそれぞれに見合った反応を見せるわけです。
ハインライン先生がそこまで考えて書いたのかどうかは別にして、わたしは個人的には、まるで読解力を試されているような気分になりました。



ちょっといきなりマニアックなところから始めてしまったので、ここで物語のあらすじを説明しておきます。

この物語の世界では、主な職業は世襲ギルドに独占されています。
マックスが夢見る航宙士(宇宙船のパイロット)になるためには、航宙士の子供に生まれるか、後継者として航宙士ギルドに登録されていなければなりません。
マックスは、子供のいない伯父さんの後継者として航宙士ギルドに推薦してもらう約束で彼の教育を受け、幼いうちから勉強していました。
マックスには航宙士に必要な才能があり、さらにもうひとつ特別な能力も持っていました。
伯父さんがマックスを推薦する前に亡くなり、続いて父親までもが亡くなったりしなければ、夢をかなえるのは、きっとそれほど困難なことではなかったはずでした。

マックスは父親の死後、先祖代々400年守ってきた土地の農場で畑を耕し、穀物を作り、義母と2人でどうにか食べてゆけるぐらいの生活を送っていました。
父親が亡くなる前にマックスに義母を頼むと言い残したので、そのせいで働いて生計を立てるために学校を中退することになっても、彼はそうしたのでした。

義理の息子のマックスを利用するばかりで、母親らしさなど欠片もない継母は、ある日、評判が悪いので有名な男を再婚相手として家へ連れてきます。
新しくマックスの義父となる男は、自分が一家の主人だと主張して、勝手に農場の土地を売ってしまったことをマックスに告げるのです。
さらに、マックスが航宙士だった伯父さんから貰った大事な本まで取り上げて売り払うと言いだしました。
父親にたのまれたから今まで義母の面倒を見てきたけれど、再婚したのならもうマックスがそんなことをする必要はないはずです。
マックスは深夜、大切な本を取り戻してこっそり家を出ました。
そして、彼はサムと出会ったのです。


家を出たマックスが最初に出会ったサムは、疲れ果て、お腹を空かせたマックスを火のそばに呼んで、何も聞かずに食事を分けてくれました。
お腹がいっぱいになると、マックスはサムに問われるままに素直に事情をを打ち明けました。
放浪生活はつらいぞと、穏やかな口ぶりで何もかも見透かしているかのようなことをいうサムは、とても世馴れていて、いろんなことに通じてもいて、マックスには話しやすい相手だったからです。

けれど翌朝マックスが目覚めると、サムはいなくなっていて、マックスの本と身分証も消えていました。
すまない…と書き置きを残して。
マックスは憤慨したものの、諦めずに目的地である航宙士組合の本部を目指すことにします。

そしてマックスは、彼よりも先にマックスの身分証と伯父さんの本を持った誰かが、彼になりすましてそこへやってきていたことを聞かされます。
指紋を取られて本人確認された後、組合の会長と引き合わされ、もしもマックスが航宙士以外の仕事を選ぶなら、亡き伯父に代わって援助しようという破格の申し出を受けるのですが、彼はそれを断り、返してもらえなかった本の代わりにその本の補償金だというお金を渡されて追いだされます。
そして、マックスが出てくるのを待っていたサムと再会するのです。

この辺りまではまだプロローグのうちなのですが、この段階でもマックスが出会う人間たちは2種類いることがわかります。
一方には、だらしないうえにマックスを利用することしか考えなかった継母や欲深い義父、彼を田舎者の浮浪者だと見た目で判断して邪険に扱う人々。
もう一方には、航宙士組合のある港までの遠い道のりを、交代運転手のふりと荷運びを手伝うという交換条件で乗せてくれ、食事までご馳走してくれた男や、組合の会長のように、突然やってきたマックスを公明正大に扱ってくれた人々です。
そしてサムもまた後者の側の人間でした。

本と身分証の件をサムは率直に謝り、彼と話しているうちに、サムを警察に引き渡す気などなくなってしまうと、マックスはサムが、何も聞かずに親切に食べ物を分けてくれたことを落ち着かない気持ちで思いだすのでした。
この「落ち着かない気持ち」がなんなのか、本に書かれていなくても察するか読み取るかできる読み手と、ただ単に「マックスは色んなひとに助けられて運のいいやつ」だと思うかで、この『スターマン・ジョーンズ』を読んだ印象はまるで異なるはずです。


ここからマックスとサムのふたりはコンビを組んで、サムの機智と知識や策略、マックスのもつ特殊な記憶力をつかって年齢と身分を偽り、ふたりは宇宙へ向かって発進間際の恒星船のひとつに乗り込むことに成功します。
マックスは世間知らずで生真面目な少年らしく、事あるごとに無知をさらけ出し、馬鹿正直にごまかしは嫌だと正論をぶつけてはサムを困らせるのですが、サムがおこなったようなごまかしでもしない限りは、地球を脱出できなかったこともわかってきました。
だからマックスは、自分に与えられたチャンスと、今いる場所で最善を尽くそうと決心するのです。


サムとマックスのやりとりだけなら他のジュヴナイル作品と大差なく思われるのですが、相棒とふたりで宇宙船の乗組員に扮して紛れこむという手段が可能だったことからして、ティーンの少年にやれるような芸当でもなければ、サムのほうは確実にもう少年ではないことが明白です。
少しずつ明らかになってくる彼の過去や経歴から逆算すると、サムは最低でも二十代半ばから後半ぐらいの年齢でないと計算が合いません。

マックスのほうにも、伯父さんが死んだ時はあまりに幼くて、息子のいない伯父がマックスを後継ぎに指名してくれたかどうかを確認する方法もわからなかったという説明が出てきます。
伯父につづいて父親も亡くなると、いろんなことが押し寄せてきてそれどころではなくなったというのだから、高校へ入学した年に父親が死んで中退したのだとしても、こちらも最低でも18歳か19歳にはなってないとつじつまが合いません。

十代も終わりに近い少年と、二十代後半の相棒が主役のジュヴナイルというのもかなりきびしいけれど、その年齢だからやれた計画なわけで、どちらも16歳じゃいくらなんでも無理があったはずです。

活字で読む場合は、登場人物は作中での描写や言動から自分で想像するしかないので、はじめのうちはマックスを16歳ぐらいだと思い、サムもかなり若く見積もってしまうのですが、宇宙船に乗りこんだ頃には修正が必要だとわかってきます。
多少の修正を要しても、見る見るうちに成長してゆくマックスのおかげか、さほどの違和感もなく、騙されたような気分にもならないのは、おそらくハインライン先生の腕の冴えのおかげでしょう。
主人公の年齢も、三人称一視点も、この物語を構成するために計算されつくしたものであったかのごとく思われてくるほどです。


そしてこの文庫本には、不思議なことに解説もあとがきもありません。
たいていの文庫本には解説か、海外作品だと、解説か翻訳者のあとがきのどちらかがあるものだと思っていたのですがこれはちがいます。
また、ハインラインのジュヴナイル作品が、ハヤカワ文庫と創元SF文庫の2社に分かれて出版されている理由も、わたしにはわかりません。
それらはたぶん「おとなの事情」なんだろうなぁと思うだけです。

『スターマン・ジョーンズ』は、率直にいってわたしは主人公のマックスに共感はしないのですが、その代わりにサムやケリーのような気分になりつつ読んでしまうという、これはそういう作品なのです。
『ルナゲートの彼方』をおとな向けジュヴナイルだと書いたけれど、読み方しだいでは、内容的にもこちらのほうがおとな向けかもしれません。



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