関東大震災での帝国陸海軍の災害出動(前編)
今年で100年目を迎えた関東大震災
首都東京が壊滅状態となったこの大災害で、帝国陸海軍はどう動いたのでしょうか?
内閣府防災のページを参考に書いて行きます。 https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/index.html
旧日本軍の災害派遣
旧日本軍は災害派遣をしていたのか?
災害で出動する場合は府県知事や東京都長官(現、東京都知事)のような当時は地方長官と称する地方自治体の長による軍への要請
または、現地の師団長や連隊長による判断での出動があります。
実際の出動では、1891年(明治24年)10月28日に起きた濃尾地震での第三師団の出動があります。
岐阜県を震源としたマグニチュード8の地震は岐阜県のみならず、隣県の愛知県や滋賀県に福井県にも広がった。
この大災害で名古屋市に司令部を置く、第三師団は当時の師団長である桂太郎中将(後に日露戦争時の内閣総理大臣になる人物)の判断で被災地へ出動します。
このように師団長や連隊長のような指揮官の判断で軍隊が被災地への救援を行う事ができました。とはいえ、現在の自衛隊のような明確な災害出動の規定がある訳ではなかった。
出動できる範囲はあくまで師団や連隊の管区地域に限定され、先の第三師団は名古屋師管区とされる愛知県・静岡県・岐阜県が管区地域になります。
仮に大阪が被災地でも、名古屋の第三師団は師団長の権限だけでは大阪へ救援には向かえないのです。
関東大震災発生直後
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災が発生した当時の東京では、皇居を警備する近衛師団と東京府・神奈川県・埼玉県・千葉県・山梨県を管区とした第一師団が駐屯していました。
東京の警備を指揮するとして設けられていた東京衛戍司令官はこの当時、近衛師団の師団長である森岡守成中将が就任していた。
東京で軍隊を出動させる際は、森岡近衛師団長の指揮下で第一師団も動くと言う事になる。
しかし、地震発生当時の森岡師団長は千葉県の演習場で重砲連隊の検閲をしていた。
こうなると、第一師団の師団長である石光真臣中将が森岡師団長に代わって東京衛戍司令官として被災地での指揮を執る事となる。
午後1時10分、千代田区永田町の三宅坂にあった陸軍省から石光中将は第一師団と近衛師団へ命令を出す。
両師団の担当地域の割り当て、300名の兵士を補助憲兵として差し出す事、消火活動や被災者の救援を命じる。
更には東京にある陸軍の病院での救護活動や近衛師団と第一師団の倉庫を解放して食料の支援を行った。
とはいえ、これらの命令は地震による電話線が断たれ、兵士が直に伝える伝令によって行われた。
伝令は東京で広がる火災などで命令が行き届くのに時間がかかった。
また軍の施設も被災しており、医薬品も被災で多く失ってしまい、物資が不足する中での活動となった。
神奈川県横須賀にある海軍横須賀鎮守府は、鎮守府をはじめ海軍施設が被害を受けた。
海軍施設の被害対応と横須賀市内の救援を横須賀の海軍は行っていた。
横須賀にあった艦艇は陸の火災に巻き込ませない為に沖へ退避させる。
9月1日夜に敷設艦「阿蘇」からの通信を行い、呉と佐世保の鎮守府へ状況報告と救援を要請した。
こうして被災1日目は混乱しつつも、陸軍は東京の救援や警備に出動したのです。
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