地球が本当に求めていること
SDGsという言葉が私は嫌いだ。おそらく、ありとあらゆる場所で見かけるようになったからだろう。あたかもそれが免罪符かのように、それさえ掲げておけば、明るい未来が待っているかのように。どこか他人事感が拭えない。
少し前に脱成長という言葉が流行った。私も件の本を読んで、概ねその内容に共感した。だけど如何せん、脱成長という言葉が先行しすぎて、本筋とはかけ離れた批判を受けてしまったのは著者の手落ちだった。脱成長というコンセプトは素晴らしい。SDGsよりはるかに責任感のある言葉だと思う。
でも人間は成長を追い求める生き物だ。人類の歴史はそのまま進化の歴史だ。少なくとも人間はそう思わないと生きていけない。だから脱成長と言われると、人類が衰退の一途を辿るかのような錯覚に陥ってしまう。突き詰めれば、それは誰もが避けられない死の恐怖であり、そこから目を逸らすために、私たちは日々なんらかの成長を感じ続けなければいけない。でないと遅かれ早かれ、人によっては文字通り消えてなくなってしまう。
存在意義を感じるために、人は社会のために地球のために何かしたがる。それはそれで素晴らしいことだ。だけど現実的に誰もができることではないし、――だからこそSDGsといったお手軽な運動が流行るのだろう――できない人間を糾弾する権利は誰にもないはずだ。なぜなら地球はみんなのものだから。
そこで性悪説に傾きつつある私は思うのだが、いっそのこと誰もが自分のために生きたらどうだろうか? つまり、自分の人生に持続可能というコンセプトを取り入れるのだ。
今を生きろとか、人生一度きりだからとか、そういう安直な言説が真理かのように扱われているけど、落ち着いて考えてみてほしい。私たちは意識しなくても今を生きてるし、人生が一度きりだからといってべつに生き急ぐ必要はないのだ。あれやこれや手に入れて、なんでもかんでも体験した人生が豊かなら、それこそ人類は滅びるよりほかない。
もう少しみんなが肩の力を抜いて――人や社会や地球のために無理して頑張ることをやめて――生きたら、世の中は一体どうなってしまうだろうか? それは誰にもわからない。だけど私は生命エネルギーというものを信じている。みんなが自分のために持続可能な生活をしたら、その分だけ発散され無駄になっていたエネルギーがこの地球に戻ってくるんじゃないかな。
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