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ショートショート『少年と海』

 老人の死後八十四日間、少年は海へ出なかった。そして八十五日目の今日、少年は再び海へ戻ろうとしていた。八十五という数字は少年にとって記念すべきものだった。少年は海についてのすべてを老人から教わっていた。船の操り方から、天候の見方から、漁の基本まで何もかもを伝授されたのだ。老人は偉大な漁師だった。幼い頃から船に乗り、体が動くかぎり海に出つづけた。晩年、彼は経験したことがないほどの不漁に苦しんだ。彼はいつだって大物狙いの漁師だったが、八十四日間に渡ってただの一匹も釣り上げることができず、失意と敗北感を全身にかぶって、帰港する日々が続いた。しかし彼は決して諦めず、船に乗り海へ出た。そして最後には見事勝利を収めたのだ。

 少年はその日を今でもよく憶えている。老人が釣り上げた――未だかつて誰も見たことがないほどの――大物が朝日を浴びて、祝祭の女神の微笑みのごとく煌めいていた。それ以上に印象的だったのが、老人の心底安堵しきった様子で、彼は力のかぎりを尽くして海の大物と戦い、その恵みを享受した。その顔には間違いなく、偉大な戦いに勝利した男の面影があった。少年は気がつくと泣き出していた。なぜだろう? 嬉しかった、誇らしかった、安心した。でもそれだけじゃなかった。老人の憔悴しきった表情、手のひらの怪我、喉の奥から懸命に搾り出したような声が、少年の胸のうちの何かを揺さぶったのだ。

 が、その日が老人にとっての最後の栄光だった。以降老人はますます衰えを見せ、やがて海にも出なくなってしまった。少年は悲しかったが、仕方がないと諦めてもいた。おじいさんはもう十分戦ったのだ。これ以上海に出ることは残り少ない寿命を縮めるだけだ。きっとおじいさんもそう考えたのだ。それでも少年は老人が死ぬまえに何度か一緒に海へ出た。その頃にはもう老人はほとんど口を聞かないようになっていた。老人は時々だが、ふと思い出したように、海や太陽や鳥や魚に向かって話しかけた。「海や、今日は荒れてるの」とか、「太陽お前はいつも大変だな。これだけのものを照らし続けるなんて」とか、「鳥くん、君はいったいどこへ行こうとしてるんだい?」とか、「おい、魚。おれはお前の敵じゃないぞ、友達なんだぞ」という具合に。

 老人が死んだ日、少年は海に出ていた。彼が港に戻るなり、漁師仲間が駆け寄ってきて、老人が亡くなったことを告げた。老人の様子を知るものはほとんどいなかった。妻とは既に死別していたし、老人には身寄りが一人もいなかった。だから少年と仲間のひとりが交代で毎日二回、自宅を訪れて様子を見ていた。ちょうどそのタイミングで少年の仲間が、老人が庭先で倒れているのを発見した。既に息はなかった。死因は老衰だった。一週間前からほとんど寝たきりで、いつ死んでもおかしくないことはわかっていた。でもなぜ最後に老人は立ち上がり、庭先に出たのか? そこで彼は最期に何を見て、何を感じ、何を考えたんだろう? 少年はそんなことを考えながら、老人の家に向かった。少年の仲間が車のハンドルを握り、少年は窓の外を流れる海をぼんやり眺めていた。

 「にしても、最後まで破天荒なじいさんだったな」と少年の仲間は言った。「あの体で立ち上がるなんて」

 「そうだな」

 「じいさんが最後に釣り上げた大物覚えてるか?」

 「もちろん」少年の頬が緩んだ。「あれはほんとにでかかった」

 「まだほんのがきんちょだったから、恐竜みたいに見えたもんさ。おれはあれを見て、漁師になろうと思ったんだ」

 少年はそれを聞いて嬉しそうに笑った。自分のことのように誇らしかった。なんせ少年はその出来事のずっと前から老人といっしょに海に出ていたから。今はもう一人でも海に出られるようになったが、老人のことを考えるとき、まだ自分が少年だという気がする。

 「――でも、なんでだろうな。あの大物の写真は一枚も残ってないんだ。町中の漁師に聞いて回ったんだけどな」少年の仲間は頬を指先でかきながら言った。「誰かが撮るには撮ったらしいんだけど、フィルムが残ってなかったか、カメラのキャップがついたままかで現像できなかったらしい。ほんと、もったいない話だよな」

 「そうだな」少年は懐かしそうな声を出した。「でも僕は、今でもよく覚えてるよ」

 「おれもさ」と少年の仲間は同意した。「生きているうちにあんな大物に出くわすなんて、まったく。あの爺さん、大したことしてくれたよ」


 老人は死ぬ前によくライオンの夢を見ると言っていた。ライオンが自分をどこかへ導こうとしていると。あるときそこはだだっ広い平原で、あるときは波が打ち寄せる砂浜、またあるときは暗く深い洞窟だったりした。老人はその夢に何かの吉兆を見出だそうとしていた。希望か、活力か、はたまた永遠か、自分でも何を求めているのか分かってなかったかもしれないが。

 少年もまた近頃、ライオンの夢を見るようになった。それまではおそらく、覚えている限りはなかった。それも老人が亡くなってから見るようになったので、彼にはまるでおじいさんがライオンになって、自分に何かを伝えたいのではないかと思ったりした。あるいは老人が最期に見た何かを少年に見せたがっているのではないかと。

 今朝も少年はライオンの夢を見た。ライオンはどこかの山を登っているところで、彼は後から追いかけていた。ライオンは何度か足を止め、あたりを見回していたが、少年と目が合うことは一度もなかった。彼もライオンに対して自らの存在をアピールしたりしなかった。その必要すら感じなかった。彼にはライオンが自分を認知していることが分かっていたから。

 外はまだ暗かった。朝日が昇るまえには海に出たいと少年は思っていた。両親を起こさないよう身支度を整え、車に乗って港へ向かった。

 両親は一人息子が漁師になったことをあまりよく思っていなかった。父は高校の先生で、母は郵便局の窓口係をやっていた。父方の祖父が漁師で、祖父の友人が老人だった。祖父は父がまだ幼い頃、海の事故で亡くなった。以来、父は海を怖がり、ときに憎むようにもなった。だからなのか――今となっては何がきっかけだったか思い出せないが――少年が老人と知り合い、海に出るようになったとき、父は強く反対した。老人に向かって「あんたはおれの息子まで殺す気か!」と怒鳴ったこともあった。しかし少年は父の思いなどつゆ知らず、海に魅了されていた。老人はそんな少年の姿を見て、覚悟を決めたようだった。

 老人の死後、父から聞かされた話だが、ある日老人が父に話があると言ってきた。二人きりになったとき、老人は頭を深く下げて、少年が海に出ることを許してくれるよう懇願したという。「あの子は生まれながらの漁師なんだ。おれにはそれがわかる。勝手だとは思うが、ここはおれに任せくれんか? この命に変えても、あの子を立派な漁師にしてみせる」と老人は言い切ったそうだ。若い頃から頑固一徹で恐れられていた老人が頭を下げている。そのあまりの迫力に父は断りたくても断れなかった。またその姿に、親父を見たような気がしたと父は言った。

 真っ暗な海に船を向けるとき、少年はいつも相反する気持ちを同時に味わう。不安と興奮だ。明け方の海は不気味なほどひっそりしている。沈黙に包まれ、初めて海に出た日のことを思い出した。周囲は真っ暗で、前方を照らす船のライトと遠ざかりつつある港の灯りだけが唯一、少年をいつもの安全な世界に繋ぎ止めていた。その先は未知の領域だ。彼は生まれて初めて本物の恐怖を感じていた。結局のところ、最期にはみんなひとりなんだ、という漠然とした――今思えば――死の手触りみたいなものを感じていた。圧倒的なまでの現実感に襲われ、しばらく動けなかった。その間にも船のエンジン音と海の飛沫が耳を聾していた。やがて微かに、どこからか老人の声が聞こえてきた。

 「怖いか?」

 少年は何も言えなかった。ただ黙って暗闇を睨みつけていた。

 「無理もない」と老人は言った。「おれだって怖いよ。でもなんら恥じることじゃない。海を恐れるのは当たり前のことなんだ」

 少年はなんとか船のエンジンを切り、ライトまで消した。わずかに見える港の光が、蝋燭の火のように揺らめいていた。まもなく漆黒が少年と同化した。空を見上げると、無数の星が瞬き、降り注ぐようだった。月はあくまで大きく明るかった。

 「どこへ行くんだい?」少年は星々に呼びかけた。「何を照らしてるんだ?」と月にも問いかけた。

 そうやってしばらく空を見ていると、自分がいかにちっぽけな存在かよくわかった。でも彼にはその事実が心地よかった。たしかに僕は取るに足りない存在かもしれない。だけどこうして、月や星や海に囲まれて生きているんだ。

 「生きるというのはそういうことだ」老人はかつて言っていた。「常に怖いものはある。極端なことをいえば、恐怖と隣り合わせなんが人生やと思う。だけどこうして、耳を澄ませて空を見上げたら、そういうもんがありがたく思えることもあるやろう」

 ひとりで海の真ん中に立っていると、死んでしまった老人がすぐそばにいるような気がした。

 「おじいさん、あんたは偉大だよ」少年は口に出して言ってみた。静寂のなかに海の鼓動が聞こえた。

 「あるようでないし、ないようである」と少年は呟いた。老人がよく口にしていた独り言だ。自分にそう言い聞かせながら、海と向き合っていた。少年も老人も安らいだ気持ちになった。肩と肩を組んで、海の上を星の上をすいすい飛んでいるような感覚だった。


 あの日、老人の亡き骸を抱きながら、少年はひとしきり泣いた。漁師仲間は気を遣って、庭先でタバコを吸っていた。だから思う存分泣くことができた。老人の胸に耳をあてて、海の音まで聴こうとした。

 「海はでかいやろう」と老人は少年に言った。「だけどな、このでかい海はすべて自分の中にも流れてるんや。おれの中にもお前の中にも」

 「そんなわけないじゃん」と少年は言った。「だって僕の体はこんなに小さいんだよ」

 それを聞いて老人は「わはは!」と大きな声で笑った。「お前にもいつかわかるときが来る。そのときが漁師になった証じゃ」

 朝日が遠い空の向こうから昇りはじめた。少年はその瞬間を見逃すまいと目を凝らした。そのうち涙で視野がぼやけてきた。気づいたときには大きな声で泣いていた。太陽はなおも昇り続ける。日の光が強まるにつれ、ぼろぼろと涙の粒がこぼれ落ちていった。

 少年は漁の準備を開始した。老人に教えてもらった手順で、てきぱきと手足を動かした。腕はまだ鈍っちゃいない。

 八十四日間、海に出なかった少年を誰もが心配していた。漁師仲間は何度もいっしょに海へ出ないかと誘ってくれた。彼はそのたびに「悪いけど、今はそんな気になれないんだ」と断った。両親もまた――あれほど漁師になることに反対していたのに――いざ少年が海に出なくなってしまうと、しきりに「今日は快晴だな」とか、「今日は大漁だったらしいよ」とか言って、漁に出るよう後押ししていた。

 老人が亡くなったとき、少年はがっくり落ち込んでしまって、初めはほんとに「もう二度と海には出ないだろう」という気になっていた。漁港全体で不漁が続いていたし、付きき合いのあった漁師が辞めてしまうのを見て、将来に不安を覚え始めてもいた。老人が最期にはひとりぼっちで死んでいった事実が、それに追い打ちをかけたのだ。もしかしたら自分も、老人と同じ境遇に落ちこんで、失意のどん底で死ぬことになるかもしれない……

 しかし、日がまた一日と経つうちに、少年の中でだんだんある思いが芽生えてきた。老人は八十四日間、なんの成果も得られなかった。しかし決して諦めなかった。そして最後にはあの大物を釣り上げたのだ。あの光景がすべてを物語っているじゃないか。

 「人間は負けるようにはできていない」かつて老人が言っていた言葉を、少年は口に出してみた。「叩き潰されても、負けやしないんだ」

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