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得体の知れぬ存在について思う事

ある日、国民文化研究会『小林秀雄 学生との対話』を再読していると文中に柳田国男の『遠野物語』が出てきたので、興味が湧いて楽天でポチっと購入してしまった。
最近は本屋に行くより楽天で本を購入する事が増えたのだが、メタバースなるものが本格的に導入されたら一歩も家から出る事なく畳の肥やしになるのではないかと今から戦々恐々としている。

1『遠野物語』とは?

今回購入した『遠野物語』とは、岩手県の遠野郡に伝わる伝承を柳田自身が実際に現地に赴いて集めた物で、その内容は起伏に飛んでいて面白く読み進める事が出来た。
物語の殆どは現世には存在(しないであろう)得体の知れない存在への遭遇の体験談であり、その伝承の奥底には不安や恐怖心そして畏敬の念が常に付き纏っている。

作中の第22節にある、祖母が死んだ通夜の晩、祖母の幽霊が目撃した親族の間を通り抜けた先に、その幽霊が触れた炭取がくるくると回ったという表現を三島由紀夫が「人の心に永久に忘れがたい印象を残す」と絶賛したのは有名な話。

我々が『遠野物語』を読むにあたって「果たして幽霊は存在するのか?否か?」という疑問は野暮と言うものだろう。むしろ、この世は得体の知れぬ存在に囲繞されていると思ったほうが良いかも知れない。

2 私の霊体験

霊感が全く無いと自認する私でさえも過去に何回か得体の知れぬ存在を見た事がある。
例えば、家内の実家にいる時に、部屋の中で視線を感じて何気無く振り返ると柱の影に顔半分くらいが此方を見ており、その顔が瞬間的に引っ込んでしまった事。その時は恐怖で暫し声が出ずに体も動けなかった。(こういう体験は他の人から結構、聞くのですが皆様はどうでしょうか?)

同じような体験で、前の家に住んでいた時に洗面台の鏡を通して見えた風呂場の入り口に、ピンク色のイヤリングが見えたと思ったら、そのままスルスルと風呂場の方に消えて行った事。
この時も恐怖で固まってしまっていた。

そして極めつけは、子供の時に近所の友達の家から自宅に帰る時に遭遇した「巨大な犬のような獣」。日も落ちて暗かったので何かの錯覚だったかも知れないが、それにして尋常ではない大きさに恐怖で動けなくなってしまった記憶がある。(その犬のような獣は此方を見る事なく、そのまま暗がりに消えて行った)

3 錯覚は誤り?

錯覚という言葉で思い出したのだが、哲学者・大森荘蔵は『流れとよどみ』の中で錯覚や幻覚という概念そのものが誤りであると指摘している。

夕暮れに山道を歩いてふと前方の道の曲がりかどに人がたたずんでいるのが見えた。だが近よってみると奇妙な形をした岩であった。こうしたとき人は先刻見えた人影を錯覚だとか幻影だとかと言うだろう。
(中略)
遠目に見えた人影が見誤りであったことには違いない。だがこの「誤り」とはこの世界に実在しない虚妄の姿を見たという意味での「誤り」ではない。その人影はたしかに一刻そこにあらわれたのである。岩はたしかに人影にあらわれたのである。ただその一刻の面相を永続する堅固な面相だと思い込んだ、という点においての「誤り」なのである。

大森荘蔵『流れとよどみ』「真実の百面相」

主観的世界観と客観的世界観からなる常識的二元論を一元化にしようと試みた大森らしい仮説だが、我々の感ずる錯覚や幻影を全て「立ち現われ」(引用文には出て来ていないが)という言葉で説明しようとしているのが面白い。

4 一番身近な不可知な世界

世の中に我々と共に何処かに存在しているであろう「得体の知れぬ何か」。その存在を頭から否定する事は容易いが、科学技術が今よりももっと発達するであろう近未来に置いても今と変わらず潜在的に我々の意識の中で存在し、それらを認識し続けるものであると推察する。

では、その得体の知れぬ存在は一体何処にいるのだろうか?
1つの仮説だが、我々の一番身近な場所ではないか?それは人の視界の後ろに広がる世界である。
人は1人でいる時に絶対に自分の目で前と同時に後ろを見る事が出来ない。後ろを見る時には振り返らなければならないからだ。

確かに2人以上になれば自分以外の人の後ろを見る事が可能だが、自分の目で直接後ろを見る為にはやはり振り向かなければならない。

ならば、鏡はどうか?
成る程、鏡ならば自分の目で後ろを確認出来るが、それはあくまで鏡によって反射された世界なので直接見る世界とは言い難い。

呆れる程の牽強付会な仮説ではあるが、人の後頭部に広がる世界は生存している内には絶対に直接的に認識する事が出来ない世界なのではないかと思う。
先程の私の霊体験に置いても、柱から半分顔らしき物があった事や鏡を通して見えた世界で起きた事とは言え、ピンクのイヤリングに関しても私の背後で起きた事である。偶然に見る事が出来た稀有な事例なのだろう。

しかし最後に挙げた「巨大な犬のような獣」の説明がつかない。暗闇の中から私の真横にひょっこりと出現した獣は一体何だったのか?
恐怖で立ち竦む私に対して一瞥もくれずに暗闇に引き返したあの獣は一体何だったのか?

先に紹介した大森の仮説に従えば錯覚、幻覚の類いではない事になる。やはりあの時、その獣は目の前に現れていたのだ。

5 生存からの脱却が鍵?

事程左様に、得体の知れぬ存在はどこまでいっても謎という謎に満ちているのだが、その謎が厳然と立ちはだかるのは我々が生存している間だけだとしたらどうか?
つまり生存の枠を外れた瞬間→死を迎えた時に全ての謎という謎が一瞬にして解けてしまうのではないかと秘かに思っている。

死んだら全てが終わりであると思っている方々からすれば身も蓋もない話なのだが、誤解を恐れずに言えば、生存する者にとっての「死」という概念は必ずしも悪い事ばかりではなく、死そのものが「全ての謎が解明する鍵ではないか?」という期待が秘められているのかも知れない。

最後までお読み頂き有り難うございました。 いつも拙い頭で暗中模索し、徒手空拳で書いています。皆様からのご意見・ご感想を頂けると嬉しいです。