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出来不出来ではなく、そこにある本質を感じられるように

ある人が、表現活動をしていた。それは絵だったり、歌だったり、小説だったりしたかもしれない。

それを俺は見た・聞いた・読んだ。
俺はその表現の稚拙さが気になった。「顔と体のバランスが合っていない」「メロディと歌詞が合っていない」「要点がわからない」。

そして(これが今までと違ったことなのだが)、稚拙さが気になった自分自身がふと奇妙に思えた。こういうとき、どうしたらいいんだろうなと思った。

フロムは言う。

愛とは、本質的に人間的な特質が具体化されたものとしての愛する人を、根本において肯定することである。
『愛するということ』エーリッヒ・フロム、鈴木晶 訳、紀伊國屋書店、p95

これまでは、自分が感じたことをそのまま伝えることが相手のためになる、正義のふるまいだと思っていたし、実際にそうしていた。軽音の身内ライブオーディションのコメント用紙に、つらつらと書き連ねていたものだ。上に書いたような、アドバイスを装った未熟な感情の羅列を。「根本からの肯定」など、到底頭になかった。

フロムの言葉を得て、そして改めて作品を鑑賞して気づいた。まずなによりも、その人がその表現を「世に出した」ことが尊いのだ。表現しようと思った(せずにはいられなかった)その人の意志、欲望、情熱が、そしてその人自身が、何にも増して深く、尊いのだ。

つまり生の営みだ。人間らしい、人間にしかできない、時間の限られた生命の躍動だ。巧拙はまったくもって問題じゃなかったんだ。

俺はそれが全然分かっていなかった。上手い下手という色眼鏡を通して歪んだ世界を見ていた。いままで、なんて恥ずかしい振る舞いをしてきたんだろう、とすら思った。

まだ気づきがあっただけで、本当に表現そのものの尊さが心の底から実感できたわけではないし、これが真理だと決めつけることはしたくない。上手なことは絶賛されてしかるべきだと思う。
表現そのものの尊さを理解するには、自分自身の人間的な成熟がきっと必要になってくるだろう。

しかし、これからの表現物や作品を観る目・感じ方は、これまでと違ったものになるだろうという確信がある。もっと世界を愛せるようになった気がした。

最後まで読んでくださってありがとうございます。 とても嬉しいです。また来てください。