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40の僕を走らせるもの

今年度は自分にとって、とても変化の多い年だったと同時に試練の年だったと思う。

その中でも、ランナーとしてはコロナ・インフルに連続罹患したあたりから酷い不調期に入り、思うような走りができない日が続いていた。

その事自体は、べつに大した問題ではない。今までだって何度も不調期を迎えてきたし、その度にコツコツと這い上がってきた。
問題は、気持ちの面。「絶対に再び走れるようになりたい」という気持ちが湧いてこない時期が続いた。

自分自身に関して言えば、復調への道は割りとはっきりと見えている。
ジョグでの走行距離を少しずつ増やし、適度にスピード練習を挟み、自分に不足している要素を見極めてそこを補っていく。単純だけど、これをコツコツ積み重ねれば調子も自ずと上がってくる。

ただ、これらの練習に取り組むためには、「覚悟」とまで言わないまでも「速くなりたい」という気持ちが必要不可欠だ。
仕事で疲れた日に帰宅ランに取り組むにも、寒い日に早起きして走るにしても、スピード練習を取り組むために帰りが遅くなることを妻に交渉するにしても(ここが一番ハードルが高い)、ある程度の目標に裏打ちされた強い気持ちが必要になる。

それが、圧倒的に欠けていた。
自分が速くなるということ、自分が記録を出すということへの興味が、以前に比べて圧倒的に弱い。
20代から30代前半は、フルマラソンで2時間30分を切って当時の「びわ湖毎日マラソン」に出場するという絶対的な目標があって、それが叶った後に気持ちの燃え尽きがあって不調期が続いた。

しかしその後に仕事・家庭のゴタゴタが重なり精神的に追い込まれていた際に、走ることで生き延びたということをキッカケに、「走ることは自分にとってとても大切なもの」という気付きがあって、再び調子が上向いた。

あわせて、自分なりの練習メニューの組み方のコツをようやく会得し、かつては夢だった「フルマラソン2時間26分切り(福岡国際A標準+職場のレジェンド超え)」や「ハーフマラソンで大学時代の自分を超える」という目標を達成することができた。

極言すると、記録を目指すという気持ちを緩め、日々の練習に楽しく取り組んだら記録が向上したということになる。

という感じで走っている僕だから思ってしまうのだ。
「もう十分やりきったんじゃないか?」と。

同世代や先輩方で、まだまだ自己記録更新を目指して練習している方々がいて、そういった方々へ尊敬の気持ちを抱いていたのは以前からのことだが…
改めて考えてみると、尊敬しているのは決して記録ではなく、もれなく忙しい生活をされている中で時間を削り出して、自分を鼓舞して練習に励む、いわば「生き様」を尊敬している。

ただ、僕にはもはや、自分の記録向上に挑む強い気持ちは、少なくともかつて程には湧いてこない。そんな自分にやきもきしていた。

そんな時、僕を気持ちに火をつける2つの出来事があった!

1つは、ブラインドランナー井内菜津美選手の伴走。
もう1つは、京都府市町村対抗駅伝宇治市チームの選手兼監督だ。

伴走については、今までもずっと取り組んできたことだけど、今年は特に大切なパリパラリンピックの年。
井内選手も、当然ながらパリパラリンピックを目指していて、私も彼女の伴走者である限りは、本人を大会出場に導き、本番では自分が伴走を務めたいと思っている。

先週の別府大分毎日マラソンで、井内選手は女子ブラインドの部で目標タイムである3時間15分を切って優勝を果たした。
まだまだ分からないが、パリパラリンピックに一歩近づいたことは確かだ。

井内選手が仮にパリパラリンピックの代表に選ばれたとして、本番で伴走するのが誰になるかということはまた別問題のようだ。
詳しいことはわからないが、前回の東京パラリンピックの時もそうだったし、協会事務局からの話にもあったが、どうやら伴走者の選考基準のひとつに「走力」という要素があるらしい。

そうである以上、そして井内選手が私の伴走を臨んでくれている限りは(ありがたいことに、私に伴走してほしいと言ってくれている)、自分ができうる限り速い自分でいなければならない。

そう思うと、心が燃えてくる。
それ以前に、何かを背負って走っている人と共に走っていることで、走ることへのモチベーションは上がってくるのだけど。
たぶん伴走をしていなければ、もっと崩れていた時期があったと思う。


そして、さらに僕の心を良くも悪くも追い込んでくれたのが、京都府市町村対抗駅伝のことだ。

宇治市チームの一般男子区間を、20代の頃からかれこれ10回くらいは走っていると思う。

いつも宇治市チームの監督から出場の打診がある時期に連絡がないので、調子を落としたことが知られて今回は見送られたのかなと思っていた矢先…「監督を引き受けてくる人がどうしても見つからないので、宇治市の監督をしてほしい」という依頼がやってきて驚愕した。

指導者の経験もないので断ろうかと思ったが、やはり前の監督さんにもずっとお世話になっていたこともあり、1年限定を条件に引き受けることにした。

自分が監督をするので、一般男子区間は確実に自分より速いS氏にお願いすることにして了承をを得た。だが、エントリー期限ギリギリにS氏から連絡があり「故障をしてしまったので走れない」とのことだった。
圧倒的な走力のあるS氏であるが、唯一の欠点が故障のしやすさというところなのだ。
そういう意味では、私のランナーとしての一番の長所は故障のしにくさ…皮肉なことに(笑)

ということで、市町村対抗駅伝に選手兼監督で出場することになった。

幸い、指導経験がないことは問題にならなかった。なぜなら、「監督」とは名ばかりで指導の要素は全くない。
メンバー候補を探し(ほどんど前任者に教えてもらったけど)、本人や学校の先生に交渉し、本番に向けての通知文書を作成して諸々の段取りを調整する。完全なる事務局業務だ。
そうなると、仕事でずっとやってきたことなので、何とかこなすことができた。
ただ、かなり大変だった。特に、全国的にも知られる強豪校の顧問の先生相手に選手の出場交渉を行った際には、ガッチガチに緊張した。幸い、快く選手を派遣してくれたけれど。

そうして、結構苦労して選手を集めていると改めて実感する。
こんなメンバーが集まるのは当たり前のことではない。監督の自分が、下手な走りをするわけにはいかない。
10回ほど走っているのに、桁違いのプレッシャーを感じ、特に劣化が酷かったスピードの強化に取り組むモチベーションとなった。

本番はというと、宇治市は第5位。
昨年度の4位より1つ順位を落としたものの(福知山市の大躍進にやられた)、全市町村唯一の開催以来連続入賞記録を維持できた。

個人的な走りとしては、同じ区間を走った4年前より1分以上遅い記録で、決してよいものではなかった(序盤から、身体が動かなかった)が、タスキを受け取った位置がよかったおかげで順位を1つ上げることができた。
まぁ、ひと安心といった感覚。
何より、全員無事に走りきれたことが嬉しい。倍ほど歳の離れた選手たちへの感謝も止まらない。…マインドが完全に裏方になっていると感じる。


このような2つのものを背負ったことにより、何とか走ることへのモチベーションを取り戻すことができた。
駅伝の走りはいまひとつだったが、走力が上昇気流に乗ってきた感じがあるので、数か月前のような、止まった車を動かすレベルの大きなエネルギー(心身ともに)は必要なさそうだ。

繰り返しになるが、40になっても50になっても「戦士」として自分の記録を追い続ける人には、その生き様に対して、走力に関係なく尊敬の気持ちを抱く。
よく考えてみると、その感情は、その「戦士」の感覚が自分には欠けていることゆえなのかもしれない。

といってもこの歳になって、自分に合わないスタイルでいる必要はないし、そのつもりもない。
根がぐーたらで臆病な性格なので、フリーで動くよりも、このように役割を背負うことが性に合っているのかもしれない。

そういえば、半年ほど前に、人のことをやたら的確に見ているM氏に「社畜タイプ」と揶揄されたな。その時は悔しかったが、やはり的確であることは否めない。
そうであるならば、そのマイナスと捉えられる自分の特性を逆手に取って、結果的に自分の心が一番奮い立つような役割を無理のない範囲で引き受けて、40代の新たなステージを走り続けていこうと思う。

自分の進むべき道が、開けてきた気がしている。
とても良い経験をさせてもらった。

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