【試し読み小説】true-blue
プロローグ
フロントガラス越しの風景に海が滑り込んできた瞬間、私の口元から思わず笑みがこぼれた。そして前方を走る車との距離に意識を置きながら、目に映る海の青さを確認する。
過去に何度も通っている道なのに、その都度幸せを感じるスイッチがオンに切り替わるのは、私にとってここが大切な場所だからなのだろう。人生の中で自分の幸せを実感するシーンは人それぞれだが、私にとってそれは大切な人、大切な思い出、そして大切な場所を思う時だ。
『みなとパーク入り口』の看板を通過しながら、私はそんなことを考えた
ここまで来るのに約30分かかった。自宅から大切な場所への距離に関しては個人的にちょうど良いと思っている。
もしも自宅から歩いて簡単にたどり着ける所であれば、ありがたみが薄れてしまう可能性があるだろう。かといってあまりにも離れすぎていれば『思い立ったタイミング』と『行けるタイミング』を一致させるのは難しい。
遠すぎず、近すぎず…。どうでもいいいと言われればそれまでだが、これが私の持論だ。
入口を過ぎるとすぐに上り坂が待っていた。私はアクセルを少し強める。
あの時は徒歩で上った。想像以上にキツイ角度の坂だということを2本の足が教えてくれたが「徒歩の醍醐味は、ゆっくりと景色が変わることだ」ということに気が付き、それだけで疲れが吹き飛んだ事を思い出す。
そう、『あの時』の私たちは…。
坂を上りきるまでに何度足を止めたことだろう。
そしてその度にドキドキしながら自分達の歩いた道を振り返った。
町の景色がさっきよりも広がっていた事を確認しながら…。
「ジオラマが出来上がっていくみたいだね。」
私の記憶から声が聞こえた。
こんなことを思い出しているうちに、車はあっという間に坂道を上りきってしまい、私は完成品のジオラマを簡単に眼下に収めることが出来てしまった。
太平洋に面し、広大な広場や展望塔など、たくさんの施設を持つ『みなとパーク』。遊園地のような派手な遊具はないものの、手軽にレジャーを楽しめるスポットとして地元に長く愛されている。家族でのピクニックや学校の遠足などでよく利用されるので、この町に住んでいれば行ったことのない人間はほとんどいないはずだ。
私もその中の1人で、ここには何度足を運んだのか数えきれない。家族で、学校で…、
そして免許を取ってからは、こんな風に1人で訪れ、気の向くままに散歩をしたり海や町を眺めたりして優しい時間を過している。
駐車場に着きドアを開けると一瞬で冷たい空気に取り囲まれた。どうやらこの場所で春を演出しているのは今のところ太陽の光だけのようだ。
私は助手席にあったコートを手に取り、スニーカーを履いた足でそっと地面に足をつけた。そして顎をぐっと上げ、パークのシンボルである『サンシャインタワー』の姿を捉える。相変わらずの存在感だ。改めてそれを確認した私は目線を元に戻し、タワーとは反対の方向に向かって歩き出した。
久しぶりのみなとパークだ。前回、ここへやってきたのはいつだっただろうか。多分1年は経っていないはずだが…。ここまであいだが空いてしまったのは初めてかもしれない。
寿退社ギリギリまでのしかかった仕事や、新生活の準備などで忙しい期間が長いこと続いてしまった。だから平日の昼間、こんな風にパーク内を歩いている自分を客観的に見ると、あまりの変わり様に時差ボケに近い感覚を覚えてしまう。
そんな私は、最近になってもう1つの自身の変化を確認することができた。
お腹にそっと手をあてる。
そう、ここにある新しい命に…。
判明したばかりなので、正直、あまり実感が沸いていない。だが、久しぶりの景色を楽しみながらも足元には気を配っているつもりだ。そのせいなのか、何度も歩いたはずのこのアスファルトの道の微妙な角度に気が付き、足をしっかりと地面に着けるように意識をする。
「明日、友達と会ってくるね。」
昨夜、私は夫にそう伝えた。
友達の名前を出すと彼は「あぁ…。」と頷き、「楽しんできてね。」と優しく笑った。
そして今朝…。
「無理はだめだよ。まだ安定期じゃないんだから。」という言葉を残して彼は出社した。
結婚前からかなりの心配性だったが、自分の妻の妊娠が判ると更に拍車がかかってしまったと思う。そんな性格だから私が1人でみなとパークに立ち寄りたい理由を述べても反対することは目に見えている。「だったら自分の休日に一緒に行こう。」と言いながら…。
ごめんね。私はどうしても今日行きたい。
ならば…お互いの平和のために私が出来ることは2つ。
『黙って行くこと』、それから『気を付けて歩くこと』。
私は心の中で夫に謝り、改めて周りを見回した。
本当に人が少ない。平日なのに加え、気候も完全に春になりきれていないからだろう。目的の場所に近づけば近づくほど体感温度が低くなっていく。理由は簡単、海からの風の仕業だ。さらに波の音もどんどん大きくなってきた。
そして私の視界の中に『潮風台』が入ってきた。
ずんぐりむっくりした風貌の潮風台はみなとパークの中で私が一番好きなスポットである。空に突き刺さっている『サンシャインタワー』に比べれば、やや地味かもしれない。だが、せり出した丘に建つこの展望台からは、崖に向かって押し寄せる波の迫力を直に感じる事が出来る人気スポットだ。
潮風台の正面に立ち、レンガ色の外観を少しのあいだ眺める。入り口階段は両側2ヵ所あり、私は自然に左側に逸れて歩き出した。
今、一生懸命仕事をしているであろう夫は、私が潮風台いるなんて夢にも思っていない。再び申し訳ない気持ちになりながら、緩やかな螺旋階段を上る。一段一段…左右の足を揃え、両方踏みしめたところで次の段へ向かう事を繰り返しながら…。
最初の踊り場でいったん足を止め、腕時計に目をやった。
「あと1時間か…。」
そう呟くと、今度は電車に乗ってこの町へ向かっている途中の友人の事を考える。
潮風台に寄って来たよ…と、彼女には伝えるつもりだ。
きっと「ああ…。」と言って満面の笑みを浮かべるだろう。
外から入ってくる波の音が壁に反射し、心地の良い振動を身体全体が受け止める。私は「あの時もそうだったね。」と思いながら、気持ちを過去に反転させた。
1
ランドセルも足も重かった。
学校なんてなくなってしまえばいいのに!
小学校入学から6年生になるまでに何度かそんなふうに思ったことはあったが、今回は特にその思いが強すぎて、本当に学校が消滅するのではないかと錯覚したくらいだった。
しかし、いつもの朝はやってきて、私は靴箱の前で現実に打ちのめされる。仕方なく自分の靴箱の上履きを取る為に少し屈んだ瞬間、誰かの赤いランドセルの側面が目に入った。
「…あっ!」
そこに揺れていた「CHECK.BOYS」のロゴが入ったキーホルダーに目が行き、私は思わず声を出してしまった。CHECK.BOYSは今人気上昇中のアイドルグループで私も大ファンだ。
「えっ?」
当然ランドセルの持ち主の子はびっくりする。
私は体勢を戻すと、その子の顔を確認した。隣のクラスの子だ。一度も同じクラスになったことはないが、顔と名前は知っていた。
「…ごめん。何でもない。」
私は覇気のない声で謝る。
「…そう。」
彼女のテンションも同じくらいだった。そして「じゃあ」と付け加えると階段へ向かって歩き出した。
こんな憂鬱な気持ちになっている時に、他の子のキーホルダーに目が行く余裕があるなんて我ながら不思議だ…と当時は思ったが、大人になった今なら分かる。これはただの現実逃避だ。
6年3組の教室前の廊下では3人の女の子が楽しそうに談笑していた。その光景を見て、心の準備がまだできていなかった私は身体をびくっとさせ、その場で立ちすくむ。3人はすぐに私に気が付き、話をピタッと止めた。
ミドリちゃん、ナホちゃん、そしてマユミちゃん…。彼女達は私の前に立ちはだかるように体を正面に向けた。
そして首をグイッと回し、私から顔を逸らす。
いわゆる「フンッ」の仕草だが、あまりにも3人の息がピッタリだったので「まるで練習でもしていたようだな」とトンチンカンなことを一番初めに思ってしまった。たぶん、これも現実逃避なのだろう。もっともほんの一瞬で現実に引き戻されてしまったが…。
「行こう!」
マユミちゃんの一言で、3人はきびすを返すと、再びキャッキャッとはしゃぎながら、早歩きで教室へ入って行った。
「……」
彼女たちは、この『一連のパフォーマンス』を私に見せつけるために、ここで待機していたのだろう。小学生の私でも容易に想像できた。
たくさんの児童が行き交う廊下。その中にいるはずなのに、私は見事に孤独の中に放り込まれてしまったのだ。
この前日、私はマユミちゃんに対して重大な過ちを犯してしまった。小学6年生が……それも同級生相手に『重大な過ち』などという表現は大げさすぎる印象を与えるかもしれないが、当時の私の心理からしてみれば、この言葉以外思いつかない。
それは昼休みの教室でのことだった。
「ちょっと、待ちなさいよ,アンタ!」
私はある一人の男子を追いかけ回していた。
彼の名前はマサノリ。背が低く、いつもチョロチョロしている印象のせいか、クラスのマスコット的な存在であり、わりと人気があったと思う。だが私にとってはただの「うるさい男子」でしかなく、極力関わらないようにしていた。
しかし今回はそういう訳にはいかなかった。
「ここまで来いよ!」
挑発するマサノリが手に持っているのはCHECK・BOYSの下敷き。そう、それは私の大切な宝物で、ほんの少し席を離れた隙に奪われてしまったのだ。
その時の私は頭に血が上り、そのせいで1つ大事な事を忘れてしまっていた。
マサノリはマユミちゃんの『お気に入り』の男子の1人だったということを…。
マユミちゃんの冷たい視線に気が付いて、一瞬で我に返ったが、もう後の祭りだった。見方によっては、2匹の子犬がじゃれているような光景だったと思う。だが、あのマユミちゃんがどのように感じるかは、火を見るより明らかだ。
急いで釈明をしようとした私に、昼休み終了のチャイムが非情に響いた。ならば放課後に誤解を解かなければと思っていたが、帰りの会が終わった途端に彼女は2人を引き連れ、さっさと教室を後にしてしまった。
マサノリはマユミちゃんにとって、片思いや両思いの相手ではない。『自分が気に入っている男子の1人』だ。そして先ほど述べた通り、私は彼に対して、マイナスの感情しか持っていなかった。それなのに…、だ。
マユミちゃんはグループの女王様だった。
白いものを黒に変える事は出来ないが、私たち3人に対してなら『グレー』程度のレベルは可能だろう。数ヶ月前はミドリちゃんが今の私と同じ立場になっていた。ナホちゃんだって似たような目に遭っている。つまり私も2人を無視したことがあったのだ。
私へのこの仕打ちはどれくらい続くのだろうか…。
(電子書籍に続きます)
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桂(katsura)
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