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多様性って?ムズ。

(画像参照元:https://door.geidai.ac.jp/


これは東京藝術大学が実施している21年度アート×福祉DOORプロジェクト(https://door.geidai.ac.jp/)を受講しての、あくまで個人的な感想をまとめたものです。
毎週の講義を通してぼく個人が何を感じ、何を考えたかをまとめています。記述内容に対する確かさは担保しておりません。あと、ものによっては講義の内容をまとめたり、個人的感想のみつらつら書いたりと、統一性も無いかと思います。
その点ご理解の上、読んでいただけますと幸いです。


4月19日の初回は、テーマは多様性について、「ダイバーシティと表現未満」というタイトルで開催されました。障害者支援の最前線で働いている方を講師に招いての講義でした。講師の方自身、息子さんが重度の障害を持っているということです。



講義中のパンチライン

・異質を受入れるのが多様性。
・良しも悪しも両方認める。
・答えでなく、ひたすら問いを投げ続ける。
・自分の中に多様性があるか問われる瞬間がある。
・問題行動は彼なりの表現かも?
・問題行動ってなんだ?こう定義されると重度の息子がいるとしか思えなくなる。



嫌いは悪ではない

講義のあとから、多様性についてずっと考えています。「多様性とは、言葉では簡単だけれど実践は本当に難しい。」講師の方のおっしゃる通りだなと。僕も、そして多くの人はきっと、ポジティブな気持ちは簡単に受け入れられるけれど、ネガティブな気持ちは受け入れがたい。でもそれも受け入れる先に多様があるから。好も嫌も許容する。だから多様性は難しい。と理解しました。

講義を受けて一つ救われたことがあります。それは「嫌いな気持ちを否定しなくていい」、正確ではないかもですが、そのような言葉をおっしゃっていたと思います。その言葉に心が軽くなったのを覚えています。

ぼくは、福島県いわき市の社会福祉法人五彩会の特別養護老人ホームで働いています。介護職ではなく企画職として、現場ではなく裏方です。きっかけは介護が好きでという理由ではありません。家業として盛り立てたいという思いで、あとは当時悪化した持病の関係もあり、その他もろもろの理由笑。で、東京で働いていましたが戻ってきました。

戻ってきて、正直これまで抵抗を感じていた福祉の世界に足を踏み入れて、知らない世界を知って、素晴らしさを学びました。社会にはもっと福祉的営みが必要とさえ思います。使命感を持って日々仕事をしています。楽しいです。

ただ、じゃあ現場で介護を仕事としてしたいかといえば、揺らぐ自分がいます。すべきかと問われれば有無を言わさずすべきと答えますし、そういう意味ではしたいです。ポイントは、したいかどうかという純粋な望みがあるかということ。そう問うと揺らぎます。


当然そんなことは普段口にできませんし、この自分の気持ちは多分違うんだよなと思っていました。でも、嫌いを否定することはない。と聞いて、そんな自分の気持ちに蓋をしていたのが、その必要はないと思えました。多様性は全てを受け入れた先にある。好きだけを集めて、嫌いを淘汰するのは多様ではない。だから良いんだと。大事なのは、嫌いという気持ちは大事にしていいから、じゃあなぜ嫌いなのか?そこと向き合うこと。そう自分の中で腑に落とせたんです。むしろ嫌いだからこそ、外の人に介護の魅力を正確に伝えられるし、本質的価値を見つけて活動出来るとさえ感じています。

(すごく僕は介護が嫌いみたいに表現しちゃいましたね。これだとすごく誤解で。苦手意識がまだある、好きか嫌いかで言えば嫌いな方?心が抵抗を感じている。そして、好きと思える部分も確かにあって。や、普通にめちゃくちゃやりたい!とも本当に思う。みたいな感覚です。結局どっちなんだというか、どっちの気持ちもあるんです。本当にどっちも。んー。探り途中ということですかね。)



社会に多様性ってどれほどあるのか?

そのうえで、仕事全般に言える気がしますが、多様性ってないなあと感じます。それこそ嫌いを言いにくい。前職は百貨店で働いていました。でも接客が大っ嫌いでした。ある日接客が嫌いですって先輩に話したら渋い顔されて、じゃあなんでこの会社入ったの?と言われました。当然ちゃ当然ですけど笑。好きな人からすれば自分が好きなことを嫌いと言われたら普通に腹立ちますよね笑。そもそもその会社を志望して入社試験を受けているので、そんな仕事が嫌いって普通は??だと思います。僕でも誰かにそう言われたら同じ感情を抱くと思います。でもその時はすごくショックだったんですよね。拒絶されたというか、嫌いって表面化はしているけど、その中身を知ったら理解し合える点があるかもしれないのに、その隙すら与えてもらえない感覚。浅はかだなって思っちゃったと言いますか。でも当然だとやっぱり思うし。

みたいに、同じ思いとかで固まりがちなのが人だと思うんです。実際僕も気の合う仲間とだけつるみたい。自分の中にも多様性が無いんです。

で、介護ってすごくどっぷり福祉だけれど、そんな介護も、そういう意味で多様じゃないかもしれない。(ここには福祉は多様性の思想があった方がいいのではないかという僕個人の前提があります。)お年寄りを好きで、心地よい暮らしのデザインをして、喜ばれて、やりがいを感じて、そういう気持ちが正しくて、それ以外のマイナスな気持ちは入るスキがない気がしてしまいます。これって多様じゃない。イコール全然福祉じゃないと思います。福祉って、一般的に言われる社会的弱者(この表現の議論は一度置いとかせてください)もみんな受け入れる思想だと思います。弱者救済と言いますか。それと反し少数意見の持ち主が生きにくさを感じてしまうという意味で、福祉が出来ていないと思うんです。そんなことも今回の講義の後で考えました。



嫌いを受入れるは可能なのか?

そこから派生して、でも嫌いを受入れるって本当に可能か?って思います。人類の歩みは=強者が生き残った歴史だとするなら、そもそも弱者は生き残れない、種の主張が強いものだけが生き残った。嫌いを受入れられたのなら戦争だって起こらなかったでしょう。強いが弱いを淘汰してきたのが人類だと思うので、そんな種族が嫌いを受入れるなんて本当に可能なのか?それは仏以外ありえないのでは?
そもそも、好きは大いに表現していいけれど、どうして嫌いという感情が人にはあるんだろうか?とさえ思います。危険を察知する本能と言われたらそれまでですが。嫌いという感情がある以上、やっぱり究極的に多様性はあり得るのだろうか?と思います。

ただこれはマジョリティー的思想で、マイノリティーからすれば、そんな世界は生きにくい。多様はあると信じて、その先の世界を生きてみたいと思う。排他される側は、たまったもんじゃないですよね。だから多様ある世界を目指すんですよね。

どうしたらいいんでしょうか。いっそ無関心が究極の多様性だとも思ったりします。好きも嫌いも気にしない無関心。て具合に頭が堂々巡り中です。でも、ぼくは福祉に片足突っ込んだ人間です。正面から向き合う使命があると思うし、実際こうして考えていて楽しい。だから、多様ある世界とは?それは成しえるのか?これからも考えていきます。ありがとうございます。
でもつくづく自分の中に多様性はまだまだ育まれていないなって感じました。やっとそこに気づけた感もあります。

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