0425-0501緒方

0425 緒方が演出家を初めてやってみた所感
0501 最近の知見について(多分こっちを読んだ方がいい)

0425

今日は通しでした。(0425)演出家のお仕事は役者を続けてきた私にとって新鮮ですし、力不足を実感する毎日です。今から書くことは演出家の皆さんにとっては極当たり前のことなのかもしれませんが、このノートは最小半径では私のための稽古場日誌なので、今の私の状態を整理するために書いていきたいと思います。

演出家をやってみて
・意思決定の量・質がともに高い。人が1日に意思決定できる量は限られているという話を聞いたことがあるが、稽古ごとにこの限界に迫るのを感じる。(”ストレスがあると言う認識が人にストレスを与える”という言説があるように、そういう認識を持っているせいで苦しんでいるのに過ぎないかもしれないが…他の演出家はこれ苦しくないなんてサイコパスだろ)
・演出家は堂々としているべきだという考えと、生真面目さのジレンマに今苦しんでいる。まず、私には演出家が悩んでいる姿を見せると、座組みに不信感を与えるかもしれないというプレッシャーがある。(もう、こういうノートを書いている時点で悩んでいる姿を見せているという説isある)座組みを引っ張っていく存在として、曖昧なことしか言えないリーダーにはついていこうという気にならない。リーダーには自信たっぷりに座組みの疑問に対して言い切って欲しい。
しかし一方で、演出家の裁量権はとても大きい。その劇を丸ごとデザインするという点でも、演出家の一声で座組み全員に大きなリソースを裂かせることになるという意味でも。器用さで自信ありげに振る舞いその場しのぎの答えを出すことはできるかもしれない。(むしろ今まで私は器用さと適当さだけでコミュニケーションを成立させてきた人間だと思う。)しかし、演出家になって私の言う事が周囲に大きな影響を与える時、無責任なことは言えなくなってしまう。それに、適当なことを言って現実の問題を直視せずにその場を凌ぎの言葉でやり過ごすのは、劇作を深めるに当たってもいいことは何一つない。
以上の様な板挟みにより、スタンスがあやふやで、演出業務に支障をきたしていると思う。
・今日”内側にあるイメージや思想をいかに現実にするかという事こそがクリエイティブだ”と言う言葉をもらったが、今後この言葉は、私の中で一つの原理として機能し続けるだろう。今まで役者をやってくる中で、私は役者の立場においては基本的に自然な肉体(すなわち、役者の中にある心の動きが、身体と言う役者独自のメディアを通して素直に出力される状態)が大切だという考え方でやってたし、役者と言う業務は劇全体のダイナミズムを目指して必要な心の動きを作るための調整だと考えてきた。しかし一方で、演出家と言う仕事は役者の内側で起こっていることだけでなく、物理的に目に入ってくるもの(すなわち見栄やスタッフワーク)や、劇ダイナミズム全体までを管理することである。ここに、役者と演出家で内側⇄外側、ミクロ⇄マクロという目線の違いを感じる。これは私が今後役者をやっていく中で非常にいい経験になると思われるし、今回の公演のコンセプトである”座組みに蓄積を作る”ということの一つの側面である。


0501

最近の知見
・今回「紙風船」を選んだ時、”紙風船のような古典は既に演じ尽くされているので、上演映像などを参考することで従来稽古場で必要なトライアンドエラーが省略され、完成までの道のりが短くなるのでは?”と期待していた。
しかし、実際は①意外と紙風船を舞台で上演している映像作品がない②役者の個別性に左右されるところが大きすぎて、思ったより参考にならない部分が大きい、と言った事情から、そうでもなかった。結局稽古場でのトライアンドエラーを最短距離に省略するなんてことは不可能なのだ。(こういうふうに、絵に描いた餅が実際はうまくいかないことに気づいたのも、演出をやってみてよかったことだ。やらずに演出家を批判していた自分を恥じよう)
・今回の演出意図として、演出家→役者というトップダウンで振りを付けるのではなく、演出家→劇作←役者というふうに、相互に劇作に役者の個別性をもっと活かしたいという思想がある。(ちなみに、かつぱら第一回で役者独自の身体性を見せ物にしようとしたように、”ある個人の持つ個別的価値を尊重する”という点で、割と団体として思想が一貫しているように思う。これは現代演劇をやってるとこ多い思想という気がするが、パーソナライズが流行っている現代の風潮にかなった変化なんだろうなあ。)
脱線が長くなったが、以上の目的を達成するためにはどうしたらいいだろうということをずっと考えていた。(そのためのトライとして、ダメ出しの時に”役者間or役者から演出家に何かありますか”と聞くというのをやってみたり、”いい会話劇とはなんなのか?”という議論をやってみたりしたけど、正直うまく機能しているのかは微妙だったかもしれない。)
前回の稽古では、この問題に対して一つの知見が得られた気がする。その時の稽古で、一番要約的な指示のみを役者に与えた方が予想外の新しい出来事が起こること、そしてそうやって自然に生まれたものの中に役者個人の持つクリエイティブがあることに気がついた。同時に従来の演出方法(すなわち、稽古であるシーンをやってみて、演出家が前の方から逐一ダメ出しするという手法)では、稽古場で役者達の身体が振り付け的な演出によってむしろ不自由になっていた様な気がしてきた。
そこで、今回の稽古では今までのように細部を見つめ引っかかるところをダメ出しするのではなく、①フィードバックの時はあくまで私からの”見栄”という前提で喋る。”これはダメ”と言えるような立場で喋らない。②目的とする効果に応じて、”こういうことやってみて”という風に、外付けの条件を一つだけ(ひとつじゃなくてもできるだけ少なく)追加する③ここだけは変えて欲しいという部分も一番大事な一点(すなわちそこを変化させることによってシーン全体への影響が大きいであろう部分)だけ伝えるようにする、という手法をとってみることにした。
先程の稽古で自分でもこれがちゃんとできていたかはわからないが、今のところこの手法が一番役者の自由度を保ったまま劇作の枠組みを作っていくのに機能しているような気がする。(それに、結果的に私も部分ではなく全体を見れる点もいい。)今後も一つずつ知見と進捗を蓄積したい。
・以上のように演出家(また役者)のスタイルというところに目を向けるようになったのは、ルナやあんりーぬの様に、従来駒場演劇外だった人たちから、電車の帰り道に内部の演出家たちの演出方法や演技に対する考え方の特徴を聞いたことによる。(話を聞くまでは、何が私たちの特異点なのかを考えることは難しかったと思う。)おかげでプロセスを客観的に見直すことに繋がっている。座組みにきてくれて本当によかった。この調子で積み上げていきたい。
・0425を今読んで思ったが、私は真面目すぎる。又、不安になるのは決まってないことが多すぎるからだ。決まってないことが多すぎるのは、そこまでの過程が不十分だからだ。ハードとソフトの両面からもっと悠然としたい。

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