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『自分だけの代名詞など存在しない』 (23/04/08)

なにやら最近Twitterで「トランス女性が女湯にいきなり入ってきたら怖い」という話をよく見かけます。「なにを藪から棒に」と思い調べてみたら、LGBTQなどへの差別を禁止する法案を整備する議論に対する反応のようでした。(こういったLGBT理解増進法案へのデマについてはLGBT法連合会が明確に否定しています(「『心は女だ』と言えば女湯に入れる」はデマです LGBT理解増進法案めぐり当事者団体が正しい理解呼びかけ, 2023年3月17日, 東京新聞: https://www.tokyo-np.co.jp/article/238571)。また、公衆浴場法においても「おおむね7歳以上の男女の混浴を混浴させないこと」とあり、ここでいう「男女」とは生物学上の男女を指していると解釈され運用されてきました。この条文についても変更は見られないことから、仮に悪意のある男性が『私は女性だ』と言ったとしても、女湯に入っていくことをお店側が拒否できないということはありません。)■

僕は自分のSOGI(性的指向・性自認)などに違和感を持たずに生きてきた「暫定ストレート」を自認しているので当事者ではないのですが、この話題について「差別を禁止すること/理解を増進することと、『トランス女性が女湯に入れるようになる』ことは別の話では?」などと思ってしまいました。そもそも、差別を禁止することと、特定の社会集団への制度上の差別?不利益?をどう解消していくのか、ということは別の話のはずです。■

同じ時期に見かけた国会答弁の動画で、「差別を禁止するということは、女湯にトランス女性が入っていいということか?」という的外れな質問に対し、共産党の女性議員(お名前を忘れてしまった)が「差別を禁止するということは、その被差別者だけの権利を保障するだけでなく、全ての人々の権利を保障した上で差別をなくすということ」というような趣旨の答弁をしていました。まさにこれこそ、LGBT法の目指すところでしょう。(LGBT法に関わらず、党派性を超えてすべての人々の人権を保障することが民主主義の至上命題なはずですが。。。)■

同じく先日、ノンバイナリ(性別がないという性自認のこと)の活動家と右派コメンテーター(男性)の議論も僕のTwitterを賑わせていました。右派コメンテーター曰く「自分だけの代名詞は存在しない。僕を形容するときに「ハンサム」とか「優秀」といった言葉を使わねければならない、なぜなら僕自身がそう自認しているから、と言われたら?ジェンダー代名詞を提唱するのは自身の妄想や精神病のせいだ。あなたは『女性』を定義できますか?『女性』の定義とは生物学的なもの。その『女性』という言葉を着せ替え可能なコスチュームとして私物化するのはいかがなものか」と。■

これについて色々言いたいことはありますが、上記の発言だけを見ると彼の主張は「女性という言葉(代名詞)を自分の妄想を根拠に私物化するな」という言葉に尽くされると思います。ですが昨今のLGBTQを取り巻く問題は、彼ら/彼女らが「女性/男性という言葉を私物化していること」ではなく、社会通念的に「女性らしさ/男性らしさ」が表出するポイント(振る舞いとか外見とか)と、生物学的に生まれ持った性別である男性/女性とのズレとか、そういったあらゆる自分自身の性自認を表せる代名詞や概念を今ある言葉で置換すると「女性/男性」という言葉に頼らざるを得ないことなのではないでしょうか。彼らが代名詞を私物化しているのではなく、僕らが使っている言葉が追いついていないだけではないかと思います。■

「『女性』という言葉の定義は?生物学的な定義以外にあるのか?」と聞かれて、LGBT当事者の方が窮しているところを嘲笑するような動画もありました。生物学的なものではない『女性らしさ/男性らしさ』の狭間で苦悩している方々に、その言葉はあまりにも加害的ではないでしょうか。また、何度も何度も繰り返し「あなたは女性ですか?男性ですか?」と(しかもその多くは公的な場所で)問われ続けるこの世界で、「私が自分のことを『ハンサム』だと自認しているからそう呼べと言われたら?」と当事者に問うことは、あまりにもこの問題を軽視しすぎではないでしょうか。■

こうして、彼(右派コメンテーター)の主張がいかにこの問題のポイントを捉えられていないか、ということは明白ですが、「自分だけの代名詞などない」という言葉については、まさにその通りだと思っています。しかし、だからこそ、そうやって自分の知らない価値観や概念を存在しないものだとして「それはあなたの妄想です」と個人の問題に矮小化するのではなく、「あなたの痛みを聞かせてください」と言える人間でありたい。女性/男性という言葉のはざまで自分を表せる代名詞のなさに苦しんでいる方々の苦しみを体感し得ないからこそ、そういった無知への無自覚さを自覚すべきだと思っています。■

物理学では、『くりこみ理論』という重要な理論体系があります。これは説明がなかなか難しいので、僕が最もわかりやすいと感じた『くりこみ』の説明を『数理科学』1997年4月号から引用します。

(引用)「くりこみ」とは,物理における一つのものの見方,さらに広く言えば,我々が 世界を認識する基本的な姿勢を表す言葉である.「くりこみ」がもっとも威力を発揮するのは,広い範囲のスケール(距離のスケール,エネルギーのスケール,時間のスケールなど)の自由度が本質的に干渉しあっているような系を調べたいときである.
ある系において小さなスケールから大きなスケールまでが干渉しあっているとどういうことが生じるだろうか? 我々は大きなスケールを観測しているものとしよう.小さなスケールは少し大きなスケールと干渉し,それはさらにもう少し大きなスケールに干渉し,そしてさらに・・・,という具合に干渉の鎖が我々が直接観測する大きなスケールまで繋がっている.ここで、小さなスケールで起こっていることを少しだけ変えてみよう.その効果が我々の観測することにはほとんど響かない場合もあるだろうが,そういときはスケール間の干渉は本質的ではなかったと言える.
干渉が本質的ならば,小さなスケールを少しだけ変えた効果は無視できないどころか,大きなスケールで起こることを徹底的に変えてしまうだろう.こんなときは、普通の摂動論は役にたたない.なぜなら,小さなスケールで起こったことを少しだけ変えた効果は,その隣のやや大きなスケールの所では大した悪さはしないかも知れないが,次々とスケールの梯子を登っていく間に増幅されていくからだ.そうすると,大きなスケールと小さなスケールがかけ離れているとき(中略),小さなスケールで起こっていることを少しだけ変えた効果は,我々の観測するスケールでは非常に大きくなってしまうだろう.(中略)
観測するスケールにおけるユニバーサルな関係を抽出することを「くりこみ」という.このとき,観測するスケール以外の自由度たちを,忘れてしまおうというのではないし,近似的に無視しようというのでもない.それらの影響は,注目している自由度のふるまいの中に「くりこんで」やろうというのである.(中略)
我々の認識する世界を「ユニバーサリティクラスの網の目」として捉え,その壮大にして精妙な構造を読みとっていく試みは,未だ始まったばかりといってよいだろう.新しい「くりこみ」を発見することによって,この「網の目」の新しい「糸」が見いだされ,我々は新しいユニバーサリティクラスとそれを特徴づけるユニバーサルな構造を見ることができるようになる.そいういうとき,科学が進歩し,人類は少しだけ賢くなるのではないだろうか.(引用ここまで)■

『数理科学』1997年4月号

ここでいう「大きなスケール」とは、この問題の中ではやはり「すべての人々の基本的人権の保障」でしょうか。これは時代によっても異なり、女性や有色人種が「すべての人々」から疎外され参政権が認められなかった時代もありました。「セルフィー」や「スマホ」すらも、僕が生まれた頃には存在していない言葉です。今では共働きが普通になり、結婚することすらも子どもを産むことすらも当たり前ではなくなってきているように、僕らが無意識に従っている社会通念や、ただ日常で使っている語彙すらも変わってくることがあります。その概念を近似して分かった気にならずに、まだ見ぬ「糸」を見つけるべく、『自分の代名詞がない』と感じている方々の声を「それは違う」と言いつけることなく耳を傾けていけたら、誰かの居場所が少しでも増えるのではないかな、と思っています。■

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