父の思い出
2024年11月9日に父が亡くなった。89歳だった。
父は1935年中国の満州で生まれた。実家は長野県南部の田舎だが、家族全員で中国の満州に移住した。父が10歳の時、敗戦により突然、日本人は満州を追われることになった。敗戦から1年以上、中国内で逃げ隠れし、葫芦島(ころとう)在留日本人大送還でようやく日本に戻った。満州から逃げる途中で、もともと体の弱かった母親を亡くした。亡くなった母の遺体に石油をかけて燃やして埋葬したと聞いた。残された父の父親(僕の祖父)と父を含む4人の子供が日本に生還した。逃げること、生き残ること、日本に戻ることに必死で、母の死をしっかり悲しむことも受け入れることもできなかったのではないかと思う。
日本に戻った祖父は、再婚し、三女を授かり、長女、父、弟、それに二人の妹の5人兄妹となった。父は本当は教師になりたかったらしい。しかし、5人の子供のいる家計で大学に行く余裕はなかった。高校卒業後、実家のある長野の田舎から名古屋の都会に出て警察官となった。
お見合いで母と結婚し、僕と妹が生まれた。母は僕が10歳、妹が8歳の時に癌で亡くなった。祖父が早くして妻を失ったように、父も早くして妻を失った。当時、父は40代前半の昭和世代。家庭は妻に任せて、自分は仕事で頑張って出世し、よい給料を家に入れて幸せな家族を作ろうとしていた矢先だった。母が亡くなると、父は妹と僕をひとりで育てることとなった。僕は幼い妹をいじめるだけで、家事は何もやらず、手伝わず、できない、とんでもなく出来の悪い子供だった。父は仕事から帰ると急いで夕食を作り、翌日の弁当も作ってくれた。家事のほとんどを妻にやってもらい、子供がいなくて、仕事だけに集中の今の僕から見たら、本当に大変な環境だ。出世も半分諦め、本当にしんどい時期だったことだろう。
母が亡くなって4年後、父は再婚した。亡くなった母の兄が継母を紹介してくれた。再婚後、もう一人の妹ができた。両親と2人の妹と僕の5人の家族となった。その後、父は愛知県内のいくつかの警察署で署長となり、定年退職まで勤め上げた。その後、警察での経験を活かし、自動車学校でさらに10年働いた。引退した後は、近所の小学校で小学生の登下校の見回りボランティアをした。昭和世代の父だから客観的に分かりやすい肩書や表彰で人の価値を測るところはあった。実家には表彰状や感謝状がたくさん飾ってあった。2008年に瑞宝単光章を受勲した。「警察を定年までやれば、誰でももらえるものだ」と言いながら、とても嬉しそうだった。自分の人生を悔いなく邁進したと実感できたのだろう。
僕の高校時代、浪人時代はひどい反抗期だった。自分のことは棚に置き、勝手に描く期待の父親像と違う部分にいちいち腹を立てていた。大学に入って親元を離れてようやく感謝できるようになった。何不自由なく育ててもらい、すばらしい教育を受けさせてもらえたことがどれだけ有り難いことか。僕は生活に何不自由なく、一浪した上、6年制の獣医大学に行かせてもらった。25歳で社会に出るまで親のすねをかじりまくった。大学に入ったと同時に親元から離れたので、父と一緒に暮らした時間はとても短い。
とても寡黙な父だった。一緒に暮らさない期間が長くなればなるほど、実の息子に対しても、自分をさらけ出すことを避ける人だった。一見、とても感情に乏しい、冷たい人に見える。でも、それだけで簡単に冷たい人だと分類してほしくはない。僕自身も父に似ているからよくわかる。不器用で、その場の状況に応じて即座に臨機応変に喜びや悲しみの感情を表わせられないのだ。でも、自分のペースでじっくり状況を嚙み締めれば、嬉しい出来事に対しては、次第に嬉しい感情が込み上げてきて感極まる。そんな状況を感謝する。悲しい出来事に対しては、とても切なく悲しくなる。涙する。本当はとても深い感情を持つ父だった。
僕は37歳でアメリカに渡った。初めは2~3年間の赴任の予定だった。しかし、もっともっとアメリカで挑戦したくなり、転職して永住することを決断した。終身雇用の昭和世代の父からしたら、僕が大学を出て大企業に就職した当初は、息子は大企業で定年退職まで勤め上げるものと安心していたことだろう。その息子が転職してアメリカに永住することを受け入れるのはかなり大変だったかもしれない。しかし、アメリカに永住する決断をしたことを伝えると、「アメリカ人になるつもりで思う存分頑張れ」とエールをくれた。
2003年からずっとアメリカに住んでいるため、20年以上、日本に帰る頻度は1年に1回2週間程度だった。毎年帰るたびに両親が歳を取っていくのを感じた。年取った両親が二人きりで住む実家を訪れ、去る時は罪悪感が沸いた。でも、アメリカに戻れば、そんな感情はすぐ忘れ、またアメリカでの生活を満喫した。2019年に一時帰国して両親に会った後、コロナ禍となり、3年間実際に会うことができなくなった。
2023年2月、父親が心不全で緊急入院した。僕よりも妻の方が心配し、直ぐに帰って会った方がよいと促された。もう会えるのは最後かもしれない。すぐに帰国した。父は緊急事態は脱し、実家に戻れたが、3年間会っていなかった間にとても弱弱しくなっていた。お酒と食べることが大好きで太っていた父がすっかり瘦せて、小さくなっていた。
2024年9月下旬に最後の父に会うために帰国した。もう長くはないと言われ、父は再度入院していた。日本に滞在中は何度も入院中の父に会いに行った。父の状態は日によって違った。何の応答もなくずっと寝ているだけの日もあれば、意識があって応答してくれる日もあった。何日か、目を開いて僕を見て、笑顔を浮かべてくれたことがあった。少しだけ言葉を交わせた日があった。うれしかった。よかった。僕が日本に滞在した期間、父は生き抜いた。でも、もうよくなることはないと分かっていた。
再びアメリカに戻って1ヶ月余り経って、父が亡くなった。日本には戻らなかった。残された母と妹夫婦が、父の葬儀をし、見送ってくれた。アメリカにいる僕は、父の亡くなった日も淡々と自分のルーチンをこなした。朝のジョギング。いつもと変わらない大自然。ただ、朝焼けがやたらに美しい朝だった。
幼少期に戦争を経験し、自由に自分の未来の夢を思い描く余裕などなかった激動の昭和の時代を必死に生きた父だった。幼少期は満州から命からがら帰国し、その途中で母親を亡くし、日本に戻ってからは教師になるのを諦め、警察官となり、若くして妻を亡くし、その後、再婚し。。。と、父の生涯ほとんど全てが、想像もしていなかった未来だったことだろう。そして僕に起こった想像していなかった未来もすべて父の頑張りの土台があって成り立つものだ。
最後、意識も応答もほとんどなく、死を待って寝たきりになってしまった父。死の数日前、父の大好きだった妹が、会いに行ってくれた。妹が声をかけると、寝たきりで意識のないはずの父が、両目を開けて妹を見て、ウンと首を動かし、手をギュッと握ってくれたらしい。ビックリした妹は感極まって泣いてしまったらしい。妹が幼い頃、父は妹を本当にかわいがった。子供の頃の僕はとても嫉妬した。今の僕だったら、ふてくされた息子より、満面の笑顔でパパ!っと抱き着いてくる娘を溺愛してしまうのは至極当然と分かる。父と妹が最後にそんなお別れができたことが本当にうれしい。