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お金とは? 固定観念を取り払い、二重三重の誤解を解こう

我々が今、いかに虚構の中で
それと気づかずに生きているのか……。

たくさんの虚構があるけれども、

たとえば、お金の本質に気づくことでもまた、
それを実感することになります。

   *****

どっちが先なのでしょうか?
国家? それとも貨幣?

本当は、どっちが先?というものでもなく、
小さな共同体が、大きくなっていく過程で
自然に貨幣が形成されたとも考えられますが、
そういう考えは、とりあえず脇に置きます。

たとえば、なんとなく、
次のように思っていないでしょうか?

むかしむかし、貨幣というものが、ごく自然に
人々の間に出回るようになり、
あとから登場した国家が、それを税金として
かき集めて行政を行っているのだ -- と。

今の町内会や諸々の団体が、
会費を集めて運営しているのだから、
国家だって同じようにやっているのだろう……。
という漠然とした観念です。

もしそう考えているとしたら、その帰結として

 お金の量には限界がある

-- そういう観念が、
最初から人々の意識に固定化してしまう
ことにもなりましょう。

そう考えた方がわかりやすいから、
実際、世間では
そういう観念が支配的なのではないでしょうか?

   *****

実は、困ったことに、今の主な経済学までもが、
そういう「思い込み」が前提となっていて、
自明のことにしてしまっているらしいです。

よく耳にする「財政赤字」「財政破綻」
などという言葉も、
そういう思い込みが背景にあるわけです。

   *****

しかし、こういう事実があります。

たとえば、明治初年のころ、
日本には、どこを見回しても自動車など
走っていませんでした。

あれから160年経過した今の日本はどうでしょう。
市街地なら、どこを見回しても自動車だらけ。
日本国内で、いったい何台走ってますか?
何千万台?

では、それを買うお金は明治初年にあったのか?
なかったとしたら、どこから湧いて出たのか?
個人個人の所持金額のことではありません、
社会全体としての貨幣量の話です。

実は、当時と今とでは、
国内のお金の流通量は何百倍も違っていました。

当時と比較して、日本の人口自体も
3,500万人から1億2,500万人へと、
3.5倍に膨れ上がっていますけれど、
それにも増して、
貨幣流通量は何百倍も増えています。

引用元:https://www.youtube.com/watch?v=hkEaFevXWUc&t=235s

つまり、政府がその時時の経済状況に応じて、
貨幣を発行し続けて来たのです。
これが事実です。

どうやって増やしてきたかというと、
当然、国債の発行によってですが、
これについても誤解が多いので、
あとで説明しなければなりません。

ともかく、国債の発行によって貨幣流通量を
何百倍も増やしてきたのは事実です。

まあ、本稿をゆっくり読み進めていただければ、
なるほど、そういうことかと、
納得していただけるものと思いますが……。

ともかく、
国家が先にあり、国家が主体となって
常に、貨幣を増やして来たと理解するのが
正解ということです。

だとしたら、お金の量には限りがあるというのは
思い違いということになります。

じゃあ、国家が自在に増やせるお金って
いったい何でしょう?

もしかして、
国家とは魔法の「打ち出の小槌」なのか?
価値あるものが、簡単に増やせるものなのか?
「政府の財源」とか「国庫」とか言うのは
どういう意味なのか?

こういう疑問が生じたとしたら、それは
信用貨幣というものが理解できておらず、
お金というものを二重にも三重にも誤解している
からでしょう。

そう。キーワードは「信用貨幣」です。

§1 信用貨幣についての誤解

「信用貨幣」という言葉の「信用」とは何か?
実は経済学者ですら誤解している場合が
多いようです。

もしかしたら、
こんな風に考えていませんか? --

金や銀を用意して「価値」の裏付けをせず、
ただ国家の信用だけで成り立っている貨幣を
「信用貨幣」という --みたいに。

ちがいます。

貨幣を発行している国家が、
「この貨幣には〈価値〉があります」と
保証してくれているから、
国民はそれを「信用」して貨幣を使っている

--みたいに……。

ちがいます。ここで言う「信用」とは、
日常生活で使う「信頼」とか「信認」などの
ことではありません。

「信用貨幣」の「信用」とは、
「貸し借りの発生」を意味する経済用語です。
すなわち、信用貨幣とは借用書です。

貸し借り? 何の貸し借りなのだろうか?
お金の貸し借りではありません(ここ重要!

負債(債務)ではあるけれど、
借金ではありません。

どういうことか?
以下、その説明を試みます。

§2 信用貨幣とは

たとえ話 --

収穫の秋、太郎君がお米を収穫しました。
近所の、いちご農家の花子さんは、
彼のお米が欲しかったので、

「太郎君、お米ちょうだい。
 来年の春になったら、いちごをあげるから
 交換しましょう」

と言って、太郎君からお米を先に受け取り、
いちごはまだなので、彼に借用書を渡しました。
この借用書が、すなわち貨幣です

借用書とは「先に受け取りました
という印です。

やっていることは、実質
お米といちごの物々交換に過ぎないのだけれど、
収穫の時期に、秋と春の時間差があるから
借用書を間に挟む必要があるわけです。

この時間差の存在が、交換経済のポイントです。

世の中の物流の99.9999……%以上は
その本質は、時間差のある物々交換です。
やっていることは、ただの物々交換なんだけど、
時間差が有るから、そう見えないだけです。

小学校で習ったような「物々交換」すなわち、
当事者同士が現物を持ち寄る
対面での古典的な物々交換は、
確率的に滅多に存在しないでしょう。

そんな機会を待っていたら、いつまで経っても
交換相手が見つからないでしょうね。

ところが、貨幣という借用書があることで、
交換する物が、準備できていようといまいと、
ありがたいことに「とりあえず先に」
欲しい物を受け取ることができるわけです。

貨幣、便利です。
「とりあえず先に受け取りたい」
という欲求が、こういう発明を促すのでしょう。

これで、飛躍的に交換経済が活発になるだろうと
想像できます。

ただし、その場合の借用書とは、
適当に作った私的な借用書ではなく、
誰もが、「これはお金だ」と認め合える
公的な汎用の借用書でなければなりませんね。
それが貨幣というものの基本条件でしょうね。

さて、春のいちご収穫までは、
もらいっぱなしの状態の花子さん(債務者)と
お米を与えっぱなしの状態の
太郎君(債権者)がここで発生しました。

貸し借りの発生です。「信用」です。
はい、問題ワード「信用」です。

この「信用」という言葉に
仮に「信頼」のようなニュアンスが
含まれているとしても、
それは国家の「信頼」ではなく、
実際に現場で交換を行っている当事者間の
信頼関係ではないでしょうか?

つまり、
太郎君と花子さんの間の個人的な信頼関係
ということではないでしょうか?

国家の信頼など、とりあえず無関係
ということになりませんか?

貨幣を発行しているのは政府ですけれど、
発行しているのは借用書です。
借用書の信頼性を問題にすることって
ありますかね?

政府を国民の代表機関だとするなら、
仮に「国家の信頼」などと言った場合、それは
国民の信頼という意味にも取れますし。

さて、太郎君は花子さんから
借用書を受け取りましたが、
借用書ですから担保が必要ですよね。
担保はどこにあるのでしょうか?

担保は誰が用意するのでしょうか?
花子さんが用意する必要はあるのでしょうか?

いいえ、花子さんが用意する必要は
ありません。
ましてや、金や銀などの貴金属など
はじめから不要です。

ここで、
視点を第三者にまで拡げてみましょう。
そう、担保の所在を考えたいのです。

実は、ごく単純な話なのではないでしょうか?
太郎君は花子さんから借用書を受け取りましたが
これは、お金ですから、
どこかで買い物をして使いますよね。
「お金を使う」というのは
どういうことでしょうか?

お金を使うということは、
相手に借用書を渡すことですから、渡した人は、
負債を背負うことになりますが、同時に、
ある人にとっては、
実は、それが担保による精算をしている
ことになるのです。

今支払ったお金を、過去に
自分に払ってくれた人にとってはです。

わかりますでしょうか?

第三者が、何か太郎君が欲しい物
(もしくはサービス)を持っていたら
その第三者に借用書を渡して、
欲しい物を受け取ることができます。

例えば、となり村で見事な工芸品を作っている
絹子さんと出会いました。
太郎君は、その工芸品が欲しくなったので、
絹子さんに借用書を渡し、
工芸品を受け取りました。

これによって、太郎君の立場が変わります。

今度は、太郎君が「先に受け取りました」
という立場(債務者)です。
そして借用書が、
太郎君から絹子さんの手に渡ったことで、
担保が行使され、
花子さんの負債(債務)が消えたことが
分かるでしょうか?

すなわち、担保は経済活動を営んでいる
社会全体にあるということではないでしょうか?
今風に表現すれば
「担保は貨幣経済クラウドのどこかにある」
と言うことになりましょうか……。

敷衍して言うと、借用書としての貨幣の担保は
国民の生産力
ということになります
これ重要!!)。

常に健康な国民が存在してくれていて、
その中の誰かがどこかで、
欲しい物を作ってくれていれば、
それが担保ということになるわけです。

--という説明の仕方で、借用書としてのお金の
役割が説明できると思うのです。

この借用書がすなわち、「信用貨幣」です。
バケツリレーのように借用書が
国民の間を旅することになります。

回りくどい説明をしましたが、
担保という概念を持ち出さなくても、
要するに国民の間の借用書のバケツリレーが
信用貨幣の本質的な働きと考えられます。

借用書と言っても、誰もがいつでも使えるように
「名前」も「日付」も記載しない、
ただ金額だけが記載された特殊な借用書ですね。
和多志はこれを勝手に
〈ネットワーク型借用書〉と呼んでいます。

借用書と言っても、
それは、もやは「整理券」みたいなものです。

こうやって考えると、貨幣って
すごい発明だと思うのですが、
必要に迫られると、自然とこういうものが
出来上がるのかもしれないとも思います。

§3 つまり、負債(債務)には二種類ある!

ここまで

 お金を払うこと = 負債(債務)を背負うこと

という説明をしてきました。
信用貨幣という前提で、話をしています。

貨幣(借用書)を相手に渡すということは、
負債の発生です。

 買い物 = 負債(債務)

です。

さて、政府も買い物をします。政府の場合は、
橋を架ける、学校を建てる、補助金を出すなどの
大きな買い物です。

政府が買い物をすることで、
世の中に貨幣が出回ることになります。

「それって、そもそも税金でしょ?」

ちがいます。
徴収した税金を使い回ししていたら、
貨幣流通量が増えないことは分かるかと
思います。
政府が買い物に使うのは新たな貨幣です。
新たに貨幣(借用書)を発行しています。
そのための手続きが国債の発行です。

そもそも、お金は借用書ですから、
税金という名前で
発行元に戻ってきた借用書は、役割を終え
理屈の上では「蒸発」することになります。

税金で行政が行われていると
我々は思わされていますが、
財務省が徴税のための口実として
嘘をついているだけです。

財務省がついているもう一つの嘘は
「国債を発行して国民からお金を借りている」
というものです。

これもちがいます。
ここで財務省は二種類の負債をごちゃ混ぜにして
国民を混乱させているのです。

政府は国民からお金を借りるようなことは
しません。

都市銀行の窓口に「国債」のパンフレットが
置かれたりしていますが、
あれは投機商品の案内です。
国債の本来のカラクリとは別物です。
国民の誤解を呼ぶための目眩ましです。

国債発行のプロセスについては、
以前にも紹介した下記の動画が
わかりやすいです。

https://www.youtube.com/watch?v=CMLYpWlQp1E&t=989s

国民の銀行口座からお金を借りる、
みたいなことを政府は一切やっていないことが
この動画でわかるかと思います。

国債を発行することで
新たな貨幣創造をやっているだけなんです。

 国債の発行 = 新たな貨幣発行

そして、その新たな貨幣を
公共事業などの形で買い物に使うことが、
負債(債務)なんです。

やっていることは、規模こそ違え、
一般国民の買い物と変わりません。

一般国民の買い物と何ら変わらないのですから、
その政府の負債(債務)は
先程述べました「貨幣経済クラウド」の中で
時間の問題で消化されて消えてしまうわけです。

そう、負債には二種類あるわけです。

・ひとつは「お金を借りた」という意味の負債
・ひとつは「買い物でお金を払う」という負債

ぜんぜんちがいますよね。

前者の負債は、世間で普通に言う借金です。
後者の負債は、信用貨幣の行使を意味します。

これをごっちゃにしている人たちが、
経済学者さんたちの間にも大勢いるわけです。

おそらく、この部分を明確にしないことが
論争を泥沼化させている原因だと思います。

論争している当事者たちの
頭の中も、まとまっていないはずです。

最近たまに話題になる「公共貨幣」を
主張されている学者さんも同様です。
理解されていません。

とするなら、
混乱を収めるために必要なことは、
ともかく、信用貨幣の意味を明確にすること
だと思います。

(2023.9.22.一部改訂)
(2023.9.28.一部改訂)
(2023.9.29.一部改訂)
(2023.10.9.一部改訂)

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