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誰も傷つけない世界に風穴を開けるのは

noteを書き始めて、もうすぐ10か月。
書くことの難しさを噛みしめています。

こんな世界の片隅で、数えるくらいの人しか見ていない私のnoteでも、
「こんな書き方したら良くないかな?」
「配慮していますよ 感を明示しておいた方がいいのかな?」
なんてことは、多少なり考えてます。
#これでも一応。
#考えが足りない?そこはまぁ、その。あれです。あれ。


恐らく、何かしらのカタチで自分の言葉を世に出す人の多くが、
こういった配慮をしながら、慎重に言葉を選び、発しているのだと思っている。


そもそも、
いつからこんな風に配慮に配慮を重ねることが必要と感じるようになったのだろう。


私の記憶に残っているきっかけの一つとして、
2019年のM-1グランプリがある。


この年に優勝したコンビはミルクボーイだけれど、3位のペコパのネタがお笑いと、その後の世間に与えた影響は大きい気がする。
#誰も傷つけないお笑い


もう2年も前のことなので、あんまりきちんと覚えていないけれど、
そのころ既に「配慮カルチャー」の土壌はしっかり出来ていたと思う。

そこに、
ツッコミ役でありながらも、ツッコまないペコパの漫才スタイルに
誰も傷つけないお笑い」という名前がついた。

名前が持つ力というものは強大で、人々に共通認識を与え、
拡散するスピードを加速させる。

この誰も傷つけないお笑いが当時は斬新で、大いにウケたことから
「傷つけない = 良い」の構図が定着し、さらに「傷つける = ダメ」の構図もより一層強く定着したと感じている。


もちろん、人を傷つけてはいけません なんてことは、幼稚園や小学校で習うことで、それは昔から変わっていない。

ただ、何が傷つけることに該当するのか、どの程度の傷までが許容範囲なのかという点については、時代とともに大きく変化してきているし、最近では微細な傷ですら許されないというか、傷がつくリスクすらも許容されないような気がしている。


もし間違って誰かを傷つけてしまうリスクを冒そうものならば、たちまちSNSは炎上し、社会正義の名のもとに制裁を受ける。まるで中世ヨーロッパの魔女裁判のように思えてしまう。
#あいつ魔女らしいぞ!よし、石を投げろー


もちろん、誰だって傷つきたくないし、誰も傷つかない方が良いに決まっている。


けれど、
ペコパの漫才に対するオードリー若林さんのコメントにあるように、
誰も傷つかないお笑いなんてものは、誰もまずいと言わない食べ物と同じで、誰にも断定はできない。



これはお笑いに限った話ではなくて、すべての情報発信に付随することだと思う。


何かしらの意見や主張に対して、多少なり反対意見があることは自然なこととして、もうちょっと許容されてもよいんじゃないかと私は考えている。

しかし、その主張(あるいは反対意見)が
世の中の多数派の意見と異なってしまったために、
制裁を受けてしまうのでは?という恐怖が大きくなりすぎていて、
言葉選びは慎重になるし、保険のための配慮も必要だし、
結果、当たり障りのない丸まった言葉しか表立っては発せられないような、
そんな感覚に陥っている気がしている。


極論を言うと、
誰も気づけないためには、
一言も発せず、ただ一人で静かに過ごしていればいい。

けれど、そんなことは不可能だ。
生きていくためには、多かれ少なかれ社会と関わりを持たざるを得ない。

関わりを持つ以上、
考えの異なる人とも対峙することがあるだろうし、
意識的か、無意識的かは別として、
不快な思いをしたり、させたりすることもある。

誰も傷つけない世界のために、
誰も本音が言えない世界になってしまっているようで、窮屈さというか、表現の見えない制約が大きく感じられる。


これも同調圧力ということか。


そういう意味で、
下記の記事にあるダウンタウン松本さんの言葉は興味深い。

「みんなが1回、2回炎上しているのが当たり前ぐらいになると、もうちょっと自由にしゃべれるようになるかなと思ったりしません?」
https://news.mynavi.jp/article/20211121-2195020/


最近、マツコ・デラックスさんとDJ松永さんが号泣していた番組が話題になった。
私自身もその番組を見ながら色々と考えさせられてしまった。
というか、漠然と感じていた違和感みたいなものが一気に具現化した気がする。

この誰も傷つけない世界に違和感を感じる自分は、世の中に上手く適合していないというか、異端なのかと思っていたのだけれど、このnoteを見て、少し勇気をもらった。

(霞いちか@霞が関の国家公務員さん、勝手にシェアさせて頂きました。ご迷惑であればすぐ削除しますのでお知らせください。)



配慮して、気遣って、忖度して、
結果、当たり障りのない もやん としたメッセージになって、
この先の創造活動はどうなってしまうんだろう。


大事なのは、
傷つけないように気を付けることも必要だけれど、
傷つけてしまった時に、その癒し方を自分も相手も知っていることのような気がする今日この頃。
#いや、決して誰かを傷つけることを肯定しているわけじゃないんです
#↑↑コレ!



そもそも世界ってのは、
不平等だし、歪だし、ぐちゃぐちゃしているものなのだけれど、
だからこそ面白いし、楽しいものだと思ってるのです。

それを、いいですねーいいですねーというのは、
ある種の褒め殺しだ。
スキもあってキライもあっていいじゃないか。

ただただ許容しあって、柔らかな言葉で包み込んで、
異を唱えないことが多様性のある優しい世界なんじゃなくて、
それぞれが異なる主義主張を忖度なく気楽に唱えることができて、
"異端者"がいても、ただ「そういう考えもあるのね」と認識したり理解しながら、自分なりの距離を保てることが、多様性のある社会なのだと思う。
#このnoteは特定の誰かに向けたものではありません
#だからコレ↑↑



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