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高校球児の髪型とアリエルの肌の色と。

昨日は台風の影響から終日延期となった高校野球の甲子園大会。
今日も朝から熱戦が繰り広げられています。

夏の大会は特に私の大好物なので、さすがに全試合というわけにはいかないけれど、時間の都合が合えば試合中継を観戦しています。


さてさて、球場外で時々話題に上がる球児の髪型問題。

私が高校生だった頃は、高校球児=坊主頭というのが一般的だった。当時も、一部の学校では坊主頭ではないところもあったけれど、それは例外的なもので、甲子園大会に出るような学校はどこも坊主頭だったような記憶がある。

今大会では、甲子園に出場している学校のうち、10校弱くらいが坊主頭ではないらしい。
この事実に対して、
「球児らしく・・・坊主にするべきだ」
「髪型と野球の上手い下手は関係ないのだから自由にするべきだ」
という議論が一部で巻き起こっている。

高校野球大好物人間である私の個人的な意見は「髪型は別にどっちでもいい」というのが結論である。
もし本当に坊主頭にした方が野球がうまくなるのだとしたら、プロ野球選手やメジャーリーガーもみんな坊主頭にしているはずだが、そうではないところを見ると、やはり坊主かどうかと野球の技量には因果関係がないということになる。

などというのは、言わずもがなの話なのである。


もちろん坊主頭にもメリットはある。
これは実体験に基づくものだけれど、坊主頭はとにかく時間がかからず楽なのである。
どこでも洗える、洗ってもすぐ乾く、セットする必要がない、寝ぐせもほとんどつかないし、ついても洗えばすぐに整う。シャンプーもほとんどいらない。コンディショナーもいらない。ドライヤーもいらない。バリカンさえあれば、美容室や床屋にも行かないでいい。
とにかく髪の毛のケアにお金も時間もかからないため、そこで生まれた余力を他のことに全振りすることが出来る。
チーム全員で坊主にすれば、ひょっとしたらユニフォームを着ているような連帯感が生まれるのかもしれない。

逆にデメリットもある。
自ら進んで坊主になった人を除けば、自己表現の選択肢が限定的なのである。前髪で遊ぶことも出来ないし、ツーブロックにも出来ない。人にもよるかもしれないけれど、あまりファッショナブルではないのでひょっとしたらモテないかもしれない。(モテるかどうかと髪型の因果関係も微妙なところだけれど)
あと、いきなり坊主にすると結構な割合で色んな人から頭を撫でられる。これはときどき鬱陶しい。


まぁ、他にも色々あるかもしれないのだけれど、要するに髪型なんてものは、本人が決めればいいことであって、外野がとやかく言う必要はないのである。

にも関わらず、毎年毎年なぜこんなにも球児の髪型に対する議論が起こるのか少しだけ考えてみた。少しだけ。


根拠も何もない、推測というかもはや妄想のような考えだけれど、観客、特に高校野球ファンの人たちは、高校野球や高校球児に対してある種の偶像を強く思い描いているのではないだろうか。

泥だらけになって、辛い練習を耐え抜いた球児たち。負ければそこで終わってしまうトーナメント。青春の全てをグランドで白球を追いかけることに懸け、掴む勝利と栄光。

そう、きっと甲子園球児達には全てを懸けて戦っていてほしいのだ。
だからこそ、彼らの青春の煌めきは眩しくて儚い・・・というものであってほしいのだろう。

坊主頭でも、そうでなくても全てを懸けて一生懸命になっているだろうし、逆に坊主頭でもそこまで全てをなげうっているわけではないかもしれない。
ただ、なんとなく坊主頭の”なりふり構わず感”がある方が、理想的な球児像に映るのだろう。(坊主推奨派にとって)

繰り返すけれど、髪型は本人が決めればいいし、その違いによって筋書きのないドラマの結末が変わることはない。


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話題は少し変わってディズニーの話。
リトルマーメイドという人魚姫をモデルにしたお話の実写版が6月に公開され、これもまた賛否両論を呼んでいる。

実写版で主人公のアリエル(人魚)に抜擢されたのは、黒人歌手だった。
私はまだ観ていないので全く知らないのだけれど、実際に見た人はその歌声がとても美しく素晴らしいものだったと絶賛していた。

ここで巻き起こる賛否両論というのは、なぜ黒人歌手が起用されたかという点である。
人魚という空想の生き物なのだから、そもそも人種などあるのかどうかも定かではないのだけれど、古典的な絵本では人魚姫は白い肌で描かれている。
確かディズニーのアニメ版のリトルマーメイドは白い肌に赤髪という組み合わせだった気がする。

子供の頃に、白い肌の人魚姫を見て育ったから、いきなり黒い肌の人魚姫が出てきて、「イメージ・・・・と違うので違和感を感じる」という意見が上がっている。

昨今のD&Iの風潮から、多くの映画では配役に人種の多様性への考慮がされていると感じることが多くなったし、人種に関わらず平等であるべきという考えに異論を持つ人は減っていると思う。(もちろん、一部に強い思想を持っている人もいる)

したがって、映画の主人公に黒人が起用されているからといって、そのことに違和感や抵抗感を持つ人もほとんどいないと思うけれど、慣れ親しんだアイコンのイメージとのギャップというのは簡単に拭えるものではないということだろうか。

個人的には、そもそも人魚に人種という概念があるかどうかも怪しいものだし、物語の本質は、恋愛のために自らの美声を捨てるかどうかみたいなところだと思うので、逆を返すとそれ以外はどうだっていいんじゃない?という気がする。きっと美声が売りの人魚姫が、ラップで韻を踏みまくっていたって、それはそれで成立する。


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偶像というのは、便利だけれど、とても厄介なものだと感じる。

複数の人間でイメージを共有するために、アイコンがあるというのは、非常に便利である。しかし、一度共有し固定化したアイコンを新しいものに刷新していくときには、どうやったって異見は出るし、賛否は出る。でもそうやって状況はゆっくりと変わっていくのだ。

そう、ドラえもんの声が大山信代さんから水田わさびさんに変わったように。ルパン三世の声が山田康雄さんから栗田寛一さんに変わったように。

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