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主観的な物語:設定・演出・演技の技術

人生は、物語に例えられる事があります。その人自身が主人公の物語です。しかし、この観点とはやや異なる意味で、私は人生が物語だと考えるようになりました。

この記事では、物語というものに焦点を当てて、その意味を掘り下げてみようと思います。

小説や漫画や映画のような一般的な物語は、私たちの世界とは切り離されています。こちらから物語の世界には介入できませんし、物語の世界の出来事も私たちの世界には影響を及ぼすことはありません。

このような一般的な物語と、人生という物語は、その点で大きく異なります。このため、この記事の中では、一般的な物語を客観的な物語と呼ぶことにします。一方、人生という物語は、主観的な物語と呼び分けることにします。

まず、物語というものの本質を考えるために、客観的な物語の最小条件について考えます。それから、主観的な物語おける本人の役割について、私の見解を述べます。

■客観的な物語の最小条件

物語とは、何だろうかと考えてみます。広く捉えると、複雑で多様な要素を含んだ文章やドラマやマンガのようなものがイメージされます。

ここでの問いは、良い物語とは何か、ではありません。あくまで物語とは何かという問いです。

このため、多様な要素が物語を成立させている事は承知しつつ、要素を削り落としていった時に、最後に残る物は何かという事を考えて見ます。つまり、物語の最小条件を考えてみます。

物語の最小条件を考えた結果を先に書くと、私は少なくとも以下の2点が物語には必須だという結論に至りました。

物語の最小条件1点目:物語世界内の自由度の提示

物語の途中段階で、自由度が提示される必要があります。自由度というのは、2つ以上の可能性があり、途中段階ではどの可能性が実際に起きるかが不明な分からない状態です。可能性は明示的なものでも、暗黙的なものでも構いません。

物語の最小条件2点目:提示された自由度の収束

物語の終了段階で、提示されていた自由度が、どこかに収束する必要があります。収束とは、可能性のうち、実際にどの可能性が起きるのかが明確になる事です。それは明示的なものでも、暗黙的なものでも構いませんし、それを予感させるようなものでも構いません。

上記の2つの条件を満たしていなくても、詩としては成立する場合はあります。しかし、物語としては、この条件が必須になると思います。以下では、ごく簡単な事例を示して、このことを確認していきます。

ケース1:物語ではない例(自由度の提示なし1)

「おむすびがあります。おむすびは動きませんでした。」
これは、世界内に自由度を想起させる部分がないため、物語ではありません。

ケース2:物語ではない例(自由度の提示なし2)

「おむすびがあります。おむすびが転がりました。」
これは、転がるという動きがあります。しかし、ケース1と同じく世界内に自由度を想起させる部分がないため、物語ではありません。

ケース3:物語ではない例(自由度の提示あり。自由度の収束なし)

「おむすびが転がりそうになっています。おむすびはどうなるのでしょう。」
これは、世界内に自由度が確認できます。しかし、その自由度が収束していないため、物語ではありません。物語の予告編、あるいは途中です。

ケース4:物語の例(自由度の提示あり。自由度の収束あり)

「おむすびが転がりそうになっています。おむすびは転がってしまいました。」
これは、世界に自由度があり、かつ、その自由度が収束しましたので、物語です。

■物語と理論、物語と自由意志

物語の最小条件は、状態が不確定状態から確定状態へと遷移する様を表しています。また、物語の受け手が不確定性を認識することと、結論を知り得ないという要件もあります。

もし、受け手が不確定性を認識していなければ条件1が成立しません。その受け手にとっては物語ではなくなります。また、確定的に結論が予測できる場合もまた、条件1が成立しません。厳密には、確率的な予測であっても条件1は成立しません。

つまり、物語(ナラティブ)は、理論(セオリー)とは異なるという事です。物語の最小定義は、物語が理論の対義語である事を示しています。

ここには、民話や伝承による知恵の伝達と、科学理論による知識の伝達の違いも見て取れます。

例えば、森で狩りをし過ぎると獲物が減ってしまい持続可能性がなくなるという状況がある時、科学理論では統計データと数式のモデルを立てて、そのことを説明するでしょう。

一方で、民話や伝承でこれを伝える場合は、森の守護霊や、あるいは魔物が登場する物語として伝えるでしょう。ここで、そうした架空の意志を持った主体が必要になるのは、理論ではなく物語で伝えるためには自由度、受け手が確定的な予測ができない要素が必要になるためです。

確実な未来が現実になったり、確率的で不確実なものが確定したら、そこには法則があり、結果はその法則から導かれる理論通りという事です。

一方で、法則や確率を把握しきれていない不確定だったものが確定したら、物語になります。

このように分類すると、この世界は過去からの理論的な現象と、物語的な現象の積み重ねによって成り立っているということになります。

法則や確率が存在しない、あるいは完全に把握することが困難なものの代表格が、自由意志です。自由意志を持った人間の集団である社会は、理論的な側面もありつつ、無数の物語性も内包しています。

■主観的な物語における本人の役割

客観的な物語とその最小条件についての話はここまでにしましょう。次は、主観的な物語について考えます。

人生を物語で例える時、本人は主人公だと考える事が多いと思います。

しかし私の場合、私の役割は、単なる主人公というわけではないように感じます。私は、主人公を演じている役者だと思えるのです。

さらに、その主人公の設定を考える作者の役割と、その主人公の設定を加味してその場その場で演出を行う脚本家の役割もあると考えます。

物語は、状態が不確定状態から確定状態へと遷移することで成立すると説明しました。

人生を主観的な物語と捉えた場合、この確定状態への遷移は、単に受け身で決定する部分だけでなく、本人の自由意志で決定できる部分を含んでいます。客観的な物語でなく、主観的な物語であるという点は、まさにこの自由意志で決定可能な不確定状態にあります。

不確定な対象は、主人公の選択だけではありません。その主人公のキャラクター設定も不確定であり、本人の自由意志で決定可能です。

そして、そのキャラクター設定を加味しつつ、物語の関係者に効果的に働きかけるにはどういった言動を取るべきかということを演出の観点で意識的に考え、確定することができます。

そして、設定と演出を受けて、それを上手く自然に実行できるかは、役者としての演技力にかかっています。

このように、設定、演出、演技の技術を駆使することで、主観的な物語をより立体的で奥行きがあるものにすることができます。

主人公として場面毎に意思決定をする人生は、ある意味で客観的な物語の延長としての人生です。設定、演出、演技により、主観的な物語を構築するという人生とは、行っていることが根本的に異なるのです。

■私の場合

私は、私の人生という物語の主人公のキャラクター設定をしています。

私の場合、この物語が危険な冒険物語でなく平凡だけれどもささやかな幸せになるような、そして、不運や予期しない出来事が起きても、そのまま悲劇に転落せずにハッピーエンドになるようにしたいのです。

幸い、私たちの周りには小説、マンガ、映画やテレビドラマなど、参考になる数多くの主人公たちがいます。これらは単なるエンターテイメントではなく、どの性格がどのような運命をもたらすかを教えてくれる、役に立つ教材です。

周りの環境や他の登場人物の性格や行動までは決めることができませんが、主人公の性格だけは決めることができます。平凡な小さな幸せが続く物語にするために、私はその主人公の性格や考え方をどうするべきかを考えて、決めています。

演じる役者の生来の性格や気質からかけ離れたものは演じきれないでしょう。けれど、役者の技術がある程度高ければ、多少は柔軟に演じられます。このため役者の生来の姿と演技力についても、よくよく考えます。どうしても演技力が不十分なら、演技力を鍛えることも必要です。

そして、この物語はあらかじめ台本が貰えるわけではありません。このため、その場その場で即興で演じていく必要があります。これを上手くこなすためには、ある程度あり得そうな場面は事前に想定して、それらの場面においてどのように振舞うかを考えておくことも重要です。これが演出です。

仕事でもプライベートでも、その場で生じた突発的な出来事に対して急に反応する必要がある時、予め想定して振る舞いを考えておけば、役柄通りに演じやすいはずです。そうすれば、感情的に反応する必要もないでしょう。かつ、その振る舞いで、周囲にこの主人公がどのような人物であるかも伝えることができます。

私の場合、ささやかな幸せのためには、なるべく敵を作りたくはありませんし、身近な人たちとは友好的な関係を築き、ある程度の信頼を置いてもらうことがポイントになると考えています。このための演出を常に考えています。

そして、それを演技しなければなりません。生来、恥ずかしがり屋で引っ込み思案な性格ではありますが、この物語の目指す姿を実現するためには、ある程度、生来の性格を越えて、主人公の設定に近い演技ができるようになる必要があります。

そのために、日常的な小さなことから少しずつ思い切った行動ができるように、少しずつ人とのコミュニケーションを積極的に取るように練習をしてきました。この積み重ねをすることで、役者が役に入り込んでしまうと、本来の自分の性格を見失うように、私も演じている姿が本来の自分と融合しているという感覚を持っています。演技であり、本物でもあるのです。

■さいごに

恐らく、こうした設定、演出、演技により構築する主観的な物語としての人生と、主人公としいて客観的な物語の延長としての人生、その両面を私たちは経験しています。その2つの側面の比率が、人によって異なります。

設定、演出、演技を駆使するのが得意で主観的な物語の面が強い人もいれば、それが苦手で客観的な物語の面が強い人もいるでしょう。

与えられた舞台や原作や台本が良好な人や、持っている性格や気質がその台本に元々向いている人は、意図的な設定、演出、演技の技術がなくとも、良い人生が送れるのかもしれません。

一方で、全ての人が良好な舞台や原作や台本を与えられているわけではありません。また、先天的あるいは後天的に自然に身についた性格や気質が、その物語を良い方向に向けるものではない人も、少なくはないでしょう。

意図的な設定、演出、演技の技術は、そうした与えられたものの不公平に対するある程度の補正や補完を可能にします。高い技術を持っていれば、かなり不利な条件下においても、素晴らしい物語を作り出すことも不可能ではないでしょう。

このため、設定、演出、演技の技術に着目することで、人生を良い方向に近づけることができる人は少なくないのではないかと思うのです。

もちろん、こうした技術にも才能や素質が必要になります。一方で、技術ですので、習得方法を見つけて獲得に取り組めば、多くの人はある一定レベルまでは身に着けられるはずです。

また、人によって適しているやり方は異なります。同じ技術が全員に適しているわけではありません。このため、できれば、様々なタイプの技術の方向性とその習得方法を揃えて、各自が自分に合ったスタイルを見つけやすくすることが理想です。


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