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2020年の年末に思うこと

2020年の年末を迎え、仕事納めのデスクワークをしながら、今年も色々あった年だなぁ・・・と思いを致しつつ、連続ツイートしてみましたので、それをまとめてご紹介します。(以下、自身のツイートを転載)

日本社会の年末は、性的役割分業を固定化したり、性差別を内包する言葉遣いを無自覚にする人たちが批判を受ける、そのお気持ちを慮れ、批判側は態度や言葉に気をつけろ、なる言説に溢れているが、こんなの、国際的に見れば「人権感覚に乏しい社会」と一刀両断なんだよな、と言うしかない。
そういうことを言うと、すぐそりゃ欧米基準だ、世界にはもっと酷い国もある、と反発が来るけど、言っちゃあ悪いが、日本の皆様が自分たちより後発だと思いたい国々の人権状況、それに取り組む人々の運動やそれを受け止める社会の状況って、思ったより進んでるんですからね。

それを受け止められないで、互いに空気を読み合い、狭い共同体の旧慣から外れることを恐れ、異議申し立てをしたら叩きまくって村八分、そういう日本だから、色々な面で立ち遅れていくんだなぁ、と思わざるを得ない。

こういうことを書いてると、特にこの10年あまり、国際協力という世界に身を置いて、正直な話、日本側が教わること、気づかされることが多くて、他の国や社会に「協力」できたことなんて少ないよな、と思い返す。単なる精神的な話じゃないよ。本当に実務的な意味でだよ。

これも、そんなことはねえよ、金出しただろ、プロジェクトやっただろ、って声もあるだろうが、そういうことじゃない。いかに社会の構造や価値観を変革していくか、その技術であったり運動であったり、そういうこと。

いま、日本社会のいろんな場面で広まってるワークショップやファシリテーションだって、その源流が南米の貧困層の教育支援の現場にあるっていうこと、どこまでの人が自覚的なんだろうね。決して「みんな仲良くオープンエンド」の道具じゃないんだよね。

人が出自の軛を外れて可能性を発現でき、人権を実質化できる社会環境を整えるには、社会に内包された格差や差別を抉り出す、その激しさも必要。学者や運動家の啓蒙的な営為ばかりでなく、一人一人が目の前の空気を察せず、お気持ちを慮らず、衝突を恐れず、日常から変えていくしかない。

自分の中の抑圧され、強いられた「怒り」の思いを、変に消化せずに、社会に、そして目の前の無自覚な「差別者」に、叩きつけるしかない。社会が変わる、その導火線に火をつけるのは、どこまでいってもやはり「怒り」。それだけは世界標準と言わざるを得ない。

社会の中の仲媒者にあたる政治家、アドボケイトな活動家や研究者は、その怒りの火をどう汲み取るかが仕事。火消しに回るのは的外れ。ファクト&ロジックを展開するのは大切だが、それは本筋で使うべき専門性であって、火消しの論理に矮小化するのは、お門違いと言わざるを得ない。

とまぁ、相変わらずの日本社会のありさまを見ながら、仕事納めの仕事片手に、こんなことを思う年末なのであった。おしまい。

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