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言葉とインターネットと多様性。あと新宿2丁目と山崎パン。

大前提として


 多様性を考えるときに、まず大前提を言うとそもそも世界は多様であるのです。

 でも、その多様なものが、多様なままだと収集がつかないから、人間はどうにかしてまとめるのです。性別として、男と女とか、年齢は何歳だとか、国とか、宗教とか、民族とか。そういうまとまりを作り、どうにかやっていく。

 しかし、完璧なまとめ方は存在しない。だから、まとめ方を常にアップデートさせて、変え続けないといけない。で、現代なりの新たな「まとめ方」が出てきたというのが「多様性」の問題の本質だと思うのですが。そんな話を、ゆっくり説明していきます。


世界に同じものは、一つも無い


 まず、世界は多様である。これは当たり前です。

 人間が2人いたとして、その2人は顔つきも違うし、考え方も違う。全く同じ人間ということは、あり得ない。たとえ一卵性双生児だとしても、違う。一卵性双生児だって「今、どこにいるか」は違います。一人がソファーの右側に、もう一人が左側に座っていれば、違う人でしょう。場所が違うんですから。

 世界に何一つとして「同じ物」は無いのです。

 ただ、それだと困る。人間は社会性を持つ生き物であり、お互いにコミュニケーションをとります。そのとき、言葉が無いことには、何も伝わらない。

 リンゴだって一つ一つのリンゴは違うものなのですが、あちらのリンゴ(というか、赤い美味しいもの)と、こちらのリンゴ(似たような別の赤い美味しいもの)を「同じ」としないと、話が進まない。

 なので、本来は別々のものを「まとめる」のです。これは「リンゴ」。私は「男」。あれは「子供」。というように。じゃないと、仲間同士(人間同士)で話が進まないから、まとめるのです。

 「まとめ方」には、正解があるわけではない。それぞれの民族で、やりたいように、使いやすいように、やっている。逆に言えば、世界のまとめ方が同じ人間集団を「民族」と言うのです。

 人間は世界中にいて、環境は違いますから、世界のまとめ方も違ってくる(世界が違うのですから)。民族ごとに、それぞれの世界に合わせて、世界をまとめて、言葉を作り、コミュニケーションをとって、社会を作るのです。

 だから「言語」はそれぞれで違うし、訳せない言葉もある。訳せないのは、そもそも、その「概念(まとめ方)」が違うから。

 言葉は概念であり、多様な世界を無理やり「まとめた」ものなのです。なので、訳せないのも当たり前。

 日本語の「しとしと雨」を英語に訳すことはできない。訳すとすれば、辞書的な「寂しげな感情を抱かせる、風が吹いていないときに、弱く降る雨」のような文章になる。英語にはしとしと雨の概念が無いから、対応する言葉が無いわけです。

 日本列島は雨がよく降るので、日本人の環境には「雨」がたくさん存在していた。だから、雨をいくつかにまとめる必要があった。でも、雨がそんなに降らないところだったら、細かく分ける必要が無いから「雨」で良いわけです。砂漠で暮らす民族に「しとしと雨」とか「小糠雨」に類する単語が、あるわけが無い。

 一方で、日本では細かく分けていない「食肉」なんかは、西洋では食文化の中心にあったから、細かく分けている。牛肉だって、部位ごとに単語がある。サーロインとか、リブロースとか。日本語には対応する単語が無いから、そのまま英語をカタカナにして使っているわけです。


レベルが違う「同じ」世界


 ということで、そもそも何十万年か前に人間が言語を喋りだした時から「本当の多様性」は失っているんです。

 言葉で理解し、仲間内で何かを表現する限り、どうしても世界そのものの多様性を表現することはできない。世界の描写は、どうしたって、言葉にならない。言葉にする時点で「違うもの」になっている。

 このように、多様な世界を人間は、各民族の都合の良いように「まとめて」理解してきたわけですが。

 しかし、物事にはレベルというものがあり、まとめ方にもレベルがあります。

 そこそこの、まぁ、そんなもんじゃね? ぐらいの「まとめ方」もあるし、いやいや、それは行き過ぎでしょう、という「まとめ方」もある。

 なぜ現代で「多様性」の問題が出てきたかというと「まとめ方」が、行き過ぎじゃね?っていうレベルにまで行ってしまって、不具合が出てきたから、その反動としての「多様性」に目が向いているのです。では、どうして「まとめ方」が行き過ぎてしまったのか。

 そのきっかけが産業革命。

 200年ぐらい前の産業革命で「工場労働」というものが生まれました。こいつは、その性質上、できるだけ労働者が「同じ」である方が良い。機械相手に働くのだから、機械のように、同じように働いてくれる労働者が必要になったわけです。

 時間も午前8時から始まるとか、休憩は一斉にとるとか、それまでとはレベルの違う「同じ(まとめ方)」が誕生しました。さらに、そういう労働者を生み出すための機関として「学校」が誕生。で、きちんと遅刻せず、椅子に座り、言うことを聞くという、現代では当たり前とされる近代文化が誕生したわけです。

 「同じ」にもレベルがあるのですが、これほどの「同じ」となると、ストレスを感じる人も多くなる。

 それまでだったら、農家であれ職人であれ、今日は気分が乗らないから休もうか、なんていう自由があったわけですが、そうもいかなくなった。

 農家や職人だったら、自分が働かなくても大した損害はありませんが、もし工場労働者が1人、来ないことで、工場が全てストップしたら損害はとてつもなく大きくなる。

 ということで、自分の気分や体調は「変わる」ものの、行動は「同じ」にしなきゃならなくなりました。要は、平日の8時〜17時は働かなきゃいけない、ってことです。働きたい時に働き、休みたい時に休む、そのような「多様性」のある社会は、失われたのです。


自分が誰だか分からなくなる


 このような変化も、いきなり起きるわけではなく、徐々に変わっていくものです。そして、働き方が「同じ」になっていく一方で、生活の基盤としての家族や地域というコミュニティは、崩壊していった。

 そもそも地域コミュニティは農業ありきの部分が多いので、工場や会社で働くようになれば、地域コミュニティの「必要」がありませんから、自然と崩壊していきます。

 家族も昔は、子供も家の仕事を手伝ってくれるのだから、家の一員だった。でも各人が会社の勤め人になれば、それぞれが個々に働くだけで、家族も自然と崩壊していく。

 さて。「自分が何者であるか」というアイデンティティは、他者との関係で決まります。

 仕事を通してアイデンティティを作れることもある。自分は農家だとか、漁師だとか、靴職人だとかいうアイデンティティ。

 また生活の基盤として、地域コミュニティや家族の中で、アイデンティティを築くこともある。自分は子供たちの父親だとか、地域のまとめ役をしているとか。で、これらが、だんだんと無くなっていった。

 仕事面で言えば、工場労働などは基本的に「同じ」働き方を求められて、「同じ」労働者がいるのですから、そこでアイデンティティを見つけるのは難しい。「自分の役割」を見つけづらい。

 もちろん、その会社の一員である、例えばトヨタや三井物産という大きなグループの一員である、というアイデンティティの作り方もある。家族や地域コミュニティと同じような役割を会社が果たしていたわけです。

 日本はこのパターンだったけれども、最近は終身雇用も崩れてきたので、会社の一員であるというアイデンティティの作り方も難しくなってきた。

 ということで、働き方を通じても難しい、家族や地域は当然のように弱りきっていく。

 じゃあ、そこで人間は何にアイデンティティを見出すのか。

 そこで「多様性」なんです。現代で多様性が流行っている根本には、アイデンティティの問題があります。


普通の人は山崎パンで働けない

 最初に書いたように、そもそも世界は「多様」なんです。全部バラバラ。あなたと同じ人は、世界に誰もいない。人類の歴史上にも、存在しない。人間は同じでは無いんです。

 でも、人間は言葉を生み出し「同じ」というまとめ方をしてきた。大人である、男である、日本人である、というように。

 すると、そのまとめた「言葉」に、むしろ合わせようと、男らしくし、大人らしく、日本人らしく振る舞うこともある。

 これは、必要なことなのです。そういうふうに、小さな違いに目をつぶり、それぞれの役割を果たすことが「社会」ですから。社会性のある動物としての人間は、ちょっとは無理して「同じ」になることは必要なんです。

 でも、限度というものもある。働き方でいえば、「靴職人」ぐらいの同じさだったら、そこに十分、アイデンティティを見出すこともできる。でも工場労働には、見いだせない。山崎パンの工場ラインに、大半の人はアイデンティティを見出せない。

 働きかたの一方で、家族の関係も希薄になっていくから、私は誰かの子供である、誰かの配偶者であり親である、というアイデンティティも作りにくい。おひとりさま社会になっているわけです。

 となると、どこにアイデンティティを見出すか。自分は何者であるかという根拠を、何に置くのか。そこで探し出されたのが、そもそもの個人の「違い」にスポットライトを当てようという話なんです。

 人間はそもそも多様なんだから、多様性(違い)はいくらだって生み出せます。

 性だって男女だけじゃなく、いくつも生み出せる。LGBTQどころじゃなくて、そもそも皆んな違うんです。「同じ性癖」を持っている人なんて、いない。異性愛者だって好みもある。細かな違いは絶対に、ある。そういう意味で言えば「正常な人」は、いない。みんな違うんですから。

 性的嗜好も無数にある、趣味も無数にある、それぞれが違う。でも人間は「1人」だけで、アイデンティティを見出すことは難しい。

 1人だけなら、それは言葉にならない。言葉や概念というのは、他者がいて、初めて存在するものです。人間は、アイデンティティを作るために、似たもの同士で群れる必要がある。

 違うもの同士の似たところ(共通項)を、少しでも「まとめて」、「言葉」にしないことには、人間はそこにアイデンティティを抱けないのです。


新宿2丁目の役割は終わった

 小さな小さな「似たもの同士」、つまり「変わり者(少数派)」同士が出会って、まとまり、その共通項を言葉にする。

 それが可能になったのは、互いに遠くにいる少数派が出会うためのインフラが整ったからです。インターネットです。

 インターネットが無ければ、少数派は出会えなかった。ゲイの人は昔なら新宿2丁目に集まるしか無かったんだけど、今ならインターネットで簡単に出会えるわけです。

 インターネットが少数派をつなげることで、少数派がまとまり、言葉(概念)ができた。今までは無かった「まとまり」が誕生した。そして仕事や地域や家庭が担っていたアイデンティティを、その小さなまとまりが担うようになった。

 その小さなまとまりは、認められないことには存在が不安定なので、周りに自分たちの存在を主張する。そこで多様性を認める社会が目指されるようになった。小さな概念を認めることで、そこに所属する人たちは、アイデンティティが安定する。これが、現代社会で「多様性」が流行っている理由です。


結論めいたもの

 ってことで、まとめますと、
  
  そもそも世界は多様で、同じものは一つとして無い。
     ↓
  人間は社会性があるので、言語で、適当に「同じ」を作った。
     ↓

  産業革命をきっかけに、行き過ぎた「同じ」が誕生。
     ↓
  窮屈な「同じ」に対する鬱屈が溜まっていく。
     ↓
  同時に、地域コミュニティや家庭は崩壊していく。
     ↓
  インターネットが普及。
     ↓
  アイデンティティを求めて、孤立した「似たもの同士」が集まる。
     ↓
  そこで生まれた新たな概念を広めてアイデンティティを強化したい。
     ↓
  多様性を認めよう!

 という感じの流れですね。ってことで、多様性を認めましょう。またあした。

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