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お金と宗教とコミュニティ

 コミュニティづくりにおいて「お金」の位置付けが難しい。宗教が入信の際に、金銭を全部、寄付させたりするじゃないですか。偏見ですけど。ま、そういうところも多いでしょう。

 俗世の金銭欲にまみれた教祖というパターンも多いでしょうが、一方で、宗教というコミュニティに参加するなら、他とのつながりである「お金」を手放した方が手っ取り早い、というのは、理屈として、とても分かる。もっとも、先ほど言ったように、そうではなく、シンプルにヤベェ宗教が大半だとは思いますが。


 そもそも「お金」というのは、コミュニティ外部との取引に使うための、共通価値です。「お金を使う」という了解を得られる程度の繋がりがある人たちとの、取引です。ただ、「お金を使わない」ほどの繋がりは無い。

 繋がりの強さで言えば「お金を使わないコミュニティ」>「お金で取引できる相手」>「お金を理解しない相手(違う通貨圏とか)」という段階です。ただ、現代社会では「お金を理解しない相手」は、アマゾン(森のほう)の奥地とかの人になるので、現実的には、前者2つを我々は使い分けています。


 お金はコミュニティ外部との取引に使う、というのを言い換えれば、お金を使わない取引ができるのがコミュニティの条件だ、ということでもあります。僕は勝手にそう定義しています。家族内でお金の取引をしないのと同じです。

 もっとも「個人化」を進める社会では、家族であっても財布は別、夫婦でも独立会計、子供が大学に進むときのお金を親から「借りて」、そして親に返す、なんていうのも当たり前になってきていますが。コミュニティが現在進行形で崩壊している現れです。(これらの行為は全て不幸につながるので、やめた方が良いです)


 僕はコミュニティ崩壊の流れに逆らって、コミュニティを作ろうとしているわけですが、そこでの「お金」の位置付けが難しい。お金を手放せば、コミュニティ内部に頼るしかなくなる。すると、コミュニティの結束は強くなる。それにどう移行するか。ハードランディングか、ソフトランディぐか。我々は生まれた時から「お金」の社会に生きており、年収の高さが人格の高さ、みたいなヤベェ社会で生きています。そういう価値観から、どうやって、コミュニティ的な「信用の取引」に転換するか、という課題です。

 なぜ「お金の取引」より「信用の取引(株式の信用取引じゃ無いですよ)」の方が良いかというと、それは、我々の遺伝子が、お金で幸福感を得られるようには、なっていないからです。お金よりも、豊かな人間関係で幸福感を感じるように出来ている。なので、それに従うまでのことです。

 遺伝子組み換えして、お金で幸福を感じられるような人間がたくさん誕生すれば、お金の世界でもいいんですけど。まだ我々は数万年前の遺伝子を引きずっており、そしてお金は数万年前には存在しません。だから、お金では幸福を感じにくいのです。


 お金がたくさんあれば、それを失う不安を感じるのは普通です。しかし、友達がたくさんいるから、友達を失うことの不安感があるという人は、少ないでしょう。少なくとも、お金よりは、不安を感じにくい。それは、自分でコントロールできるからという現実的な理由もあります。

 お金は、それを発行する中央銀行と国に頼り切らないといけませんが、家族や友人関係というのは、自分がどうとでも出来ますから。コントロールできる状態にある、というのは、不安を消す理由の一つだと思います。


 結局、心の問題だと言えば、それまでなんですよ。お金のどうこうは、心の問題。景気と不景気だって、心の作用ですから。そもそも幸福は心ですから。で、コミュニティづくりも、心の問題です。結婚生活が心の問題、愛情の問題、というのと同じです。

 どれだけ愛情深くなるか。お金の価値観から離れて、人間関係と、リアルな「モノ」の世界で生きられるか。その転換です。宗教の寄進は、バンジージャンプのように、そこを飛び込ませるわけですが。それって、追い詰められて、死ぬよりマシだという人にしか広がらない。


 となると、最初は与えることなのかな。ギブから始まる関係、という、自己啓発ぽい話になりますが。与えよさらば与えられんの世界。食べ物をくれる、家をくれる、生きていくのに心配無い、そう思ったら、段々と心でお金を手放せていくのかなと思う。

 結局、お金という幻想の産物が、現実のモノである、食べ物とか家と結びつている。本当は、結びつけなくてもいいんだけど。食べ物は、お金がなくても手に入る。家だって、お金がなくても手に入る。自分で作るとか、仲間に作ってもらえばいいんです。それを示すことかな、と思う。

 いや、お金がなければ食べ物も家も手に入らない、と思うかもしれないですが、それが間違いなのは、お金の無い時代から人間はものを食べて、家を建てて、生きているからです。でも、その当時も「取引」は、存在した。コミュニティ内部での分業が行われていたんです。

 お金を通した取引だと、取引相手が広がるから、生産効率は良くなるんだけど、税金とか不労所得とかで目減りもする。そうすると、いっそのこと、そこにできるだけ頼らない方が効率が良いんじゃないか、ということです。そのレベルまで資本主義が崩壊しかけている。


 資本主義は、その競争からこぼれ落ちた人たちをサポートする、福祉ありきじゃないと成り立たないんですけど。そして、適切な福祉を設計するためには「公共心」が必要なんですけど。それが、ありませんから。となると、役所も含めて、私的になる「経済人」が多くなる。ホモ・エコノミクスとしての振る舞いです。そういう社会で、労働者として雇われて給料をもらってモノを買ってというのは、とても効率が悪くなる。だったら、コミュニティ内部での自給自足の方がマシじゃないか。そう思うんです。


 最終目的は、自分も含めて、人間が幸福に生きるようにすることです。そのためには、お金の心配は少ない方が良い。そして「生きること」への心配が無い方が良い。そのために具体的にやることは、食べ物・家・医療・エネルギー、そのあたりを、どれだけコストを下げて提供できるかという、インフラレベルの整備です。

 それを100人単位のコミュニティで自給するために、どういう方法が最も効率が良いのかを探っているところです。はい。またあした。

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