中世ヨーロッパの免罪符と、現代のお金が似ているという話

 宗教の定義は「否定できないもの」があること、だと思うんです。科学は「分かっていない」という前提、今もそれが否定されてるであろう了承のもとに発展していく。ま、これも理想論であり、実際は、「否定できない科学」になってしまうことなんて、山ほどあるでしょうが。あの偉い教授の論だから否定できない、とかね。ま、現実はともかく、理想の定義で言えば、科学は否定され続けて発展するというシステム。

 宗教というのは、そこから外れてみて、初めて、それが宗教だったと分かるようなものでして、内部にいる時は分からない。中世ヨーロッパの人たちが「キリスト教が宗教」とは思っていない。教会の言うことは真実だと思っている。で、現代社会で「お金」は否定できないもの、とされていますが、より言えば、お金ではなく「消費者」が否定できないものになっている社会じゃないかと思います。

 これは民主主義にもつながることでして。民主主義は、人々の意見(投票結果)は正しいという前提のもとで行われます。投票の結果が、環境破壊とか、未来世代への負担につながるとしても、それは正しい。そもそも、世の中に「確実に正しいこと」は無いのですから、どんな「正しいこと」も絶対に正しいわけはないんですが。何かを正しい、としないと、社会は成り立たない。だから何かを、絶対的に「正しい」とする。民主主義は投票結果であり、資本主義では消費者になる。「大衆が正しい」という意味では、同じことです。

 ですから現代の最高の権力は「大衆の意見をコントロールできる人」となり、マスコミの力が強くなる。政治もマスコミの顔色を窺わなくてはならない。インターネットによって、そこは大分、崩れてはいますが、まだまだそういう社会です。中世の人が、自分が宗教を信じているとは思わなかったように、現代人も、自分の消費行動や投票行動が「絶対」のものになっているという宗教を、宗教だとは思っていません。

 話を変えて。ヨーロッパの旱魃に対して、保険会社が支払いをやめた(対象にしなくなった)というニュースを聞いて。ま、保険の限界です。保険ってのは「アンラッキー」をマシにするシステムです。自動車保険って、100人が保険に入って、そのうち1人が「アンラッキー」に、事故に遭った。その時、残りの事故を起こさなかった99人の保険料で、その1人を助けるというシステムです。つまり、すごく少数の人に対してのみ、補填できるわけです。

 で、旱魃ってのは、特定の一人に起こるものではありません。みんなに起こるわけです。100人が保険に入って、100人が事故に遭ったら、誰が払うねんって話です。自然災害に対して保険が弱いのは、そういうことでして、自然災害は全員に起こることだからです。

 んで、保険会社で対応できないなら、政府が出てきて、国民一律給付でもすりゃいいじゃないか、となるかもしれませんが、それでも根本的には解決しないのは、お金が増えたところで、お金それ自体に価値は無いからです。お金はあくまで「価値の交換」のためのツールです。本質的に必要なのは、モノです。食料とかエネルギーとか機械とか。お金を増やしたところで、モノが増えるわけではない。お金の役割は、モノの流通を促進する(景気を良くする)ことであり、モノを増やせるわけでは無いんです。

 となると、旱魃という災害に対して、保険やお金は何も根本的な解決にならないと、分かるでしょう。保険やお金が役に立つのは、どこかに「使われていないモノ」がある場合、そのモノをお金と交換して、自分が使えるようにすることです。モノ(価値)の流通です。モノの絶対量がそもそも少ないという時には、役に立たない。

 じゃあ、するべきは何かと言えば「モノの生産」です。ものづくりですよ。結局、そこでしか価値を生み出せないんです。「金融」はモノを生み出しているわけでは無い。金融業に優秀な人がこぞって行きたがる社会というのは、文明の末期現象を見ているようで、あんさんたる気持ちになりますが。モノを生み出す、実際の生産活動以外に、本質的に価値あるものなんて無いんです。

「お金があれば幸せになる」というのは、中世の免罪符を高額で買い求めた人と同じです。免罪符を教会が発行できたように、現代の免罪符であるお金はFRBとか日本銀行が発行できますから。で、その「宗教」が壊れると、一度、モノの社会に戻って、またモノの価値を代替する何か(お金的なもの)が現れて、そこに幻想を求める。現代は、お金の宗教が壊れつつあるところで、だから僕もこういうことを書いているわけですが。幻想は幻想ですから、みんなが信じなくなった時に終わります。

 コロナ禍でも薄々、気づいてくるんですが、給付金とか、コロナ支援とかで、お金っていくらでも生み出せるんじゃん、と、どこかでみんな体感的に分かってきたと思うんですよ。お金って、米や麦のように、それ自体で価値あるものではなくて、紙じゃん、という当たり前のことが。免罪符を、紙じゃん、と思ったように。そうなると、何に価値が戻るかというと、モノ。すると、自給自足を目指すようになる。でも自給自足は大変だから、そのうち、コミュニティになることになる。

 なんか、雑多に書いていますけど。はい。で、コミュニティは社会のベースシステムとしては良いんだけど、コミュニティで生産できないものも、たくさんある。大規模なものです。原油を掘り出すとか、自動車を生産するとか、火力発電するとか、国防とか、アマゾン(森)を守るとか。そういうことは、コミュニティでは出来ない。なので、どうしても、国レベル(国では無くてもいいんだけど)の上位コミュニティというのは、必要になる。で、そこは「信用コミュニティ(100人)」の枠外だから、お金的なシステムが必要になりがち。

 とりあえず、僕はベースとしての100人コミュニティづくりをやっていますし、現代日本でどうやったら、コミュニティの家やインフラを整えるハード面が効率よく(安く)できるかとか、そこを注力しようと思いますが。根本的には、お金の宗教が解ける時に、どうやって大きなコミュニティ(国とか地球とか)を維持していくかのシステムづくりだろうな、と思っています。とりあえず、今の僕がそこに対してやれることは無いので、せいぜい思想的なことをこうやって書いたりぐらいですが。またあした。

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