香川照之と法律と常識とSDGs
香川照之さんの一連の話で思うのは、価値観が均一化してきているな、ということ。
ま、僕は銀座のクラブどころかクラブ自体も行ったこと無いので、ニュースとかで読んでいるだけの、耳年増の意見でしかありませんが。香川さんが銀座の一流クラブでハメを外して、そのヤベェ写真が流出した。でも、銀座のクラブというのは、そもそも秘密保持を行うからこそ、高い料金を払って、芸能人とか政治家とかが遊べるところだ、という意見もあります。
良い悪いは置いておいて(ま、普通に悪いことだと思うし)、僕が感じたのは、価値観の均一化です。銀座のクラブというのは、世間とは別の価値観で動くコミュニティだったわけです。そこで変態的な行為をしようが、許されていた。
ま、それは「芸能界」もそうなんでしょうけど。パワハラとか枕営業とかが、どうも当たり前に存在するらしいじゃないですか、知らんけど。良い悪いは置いておいて(ま、これも普通に悪いことだと思うけど)、芸能界も多様な価値観の一つとして存在していた。
本来、社会というのは、そんなに大きなものじゃ無いんです。社会というのは「人の集まり」です。人が何人か集まれば、そこにはルールができる。明文化されていない「文化」的なものもあれば、明文化されているものもある。新宿二丁目の文化、銀座の文化、さまざまな文化がある。人の数だけ文化がある、と言ってもいい。それは1億人とかいうものではなく、数人から数百人ぐらいのものが、ほとんどだったと思います。
それが現在、均一化しているのは、小さなコミュニティの情報が出てくるようになった、ということでしょう。インターネットのおかげ(せい)です。香川さんの話も、週刊誌がそれを報道するだけなら、つまり、インターネットの無い時代であれば、そこまで広がらなかったでしょう。だって、読んだ人の反応も分からないし、そのうち忘れ去られる。でも、読んだ人が「気持ち悪い、ありえない」とツイッターでつぶやく。それが連鎖していく。反応が目に見えるようになった。で、CMを降板することになる。
世の中には無数の人の集まり──それは「コミュニティ」とも言えるし、「小さな社会」とも言える──がありまして、それぞれに文化がある。「我が家の文化」みたいなものも、ある。
お父さんが食卓に着くまで、みんな黙って待っている、とか、あるかもしれない。そして、今まではそれが「家の中」でとどまっていたものが、子供がスマホを持つようになり、うちはこんなです、というのをtiktokにでも上げようものなら、お父さんは炎上する。そうやって、社会の大多数の価値観とそぐわない、小さな文化は無くなっていく。
「社会が漂白される」という言い方でもいいと思うけど、均一になっていく、ということです。
で、それは「良いこと」じゃん、と思う人が大半でしょう。だって、大半の人の価値観に合わせているのだから、大半の人にとっては、それは良いことなんです。
でも一方で、人間には「多様性」がある。性格も違う、好みも違う。これは、しょうがないことです。遺伝子がそうなっているんだから。どれだけ「教育」しようが、生まれつきの性格を変えられるわけではない。(遺伝子が、人間という群れが生存していくために、多様性を保持しているのです)
コミュニティの多様性が失われるということは、人間の生き方の多様性を失う、ということでもあります。
僕も普通の人間ですから、銀座のクラブでハメを外す行為は良くないと思いますよ。でも一方で、そういうふうに発散したい人もいる。発散される側も、それがそこまでストレスにならないし、それで高収入が得られるんだから良い、と思っている人もいるかもしれない。いや、そんなふうに普通は思わないだろう、と思うのは、僕のような普通の人です。普通では無い人も、世の中にはたくさんいます。
一応、社会には、多様性を認めた上で、最低限のこれぐらいは守ろうよというルールは、あります。それは「法律」です。そして、もっと細かいルールとして、不文律のような、文化がある。で、その「文化」を均一化していくことは、とある人にとっては、生きづらい社会になっていく。
インターネットによって、おそらく初めて「大きなコミュニティ」が出来たのです。新聞やラジオやテレビで、うっすらとはあったんだけど、日常レベルには入ってこなかった。インターネットは、1億人コミュニティの深度を深め、そこで弾かれる人も出てきたんです。
じゃあ、どうすれば良いのかというと、僕が思う解決策は、コミュニティ間の移動をやりやすくすることです。
銀座のクラブの被害を受けた女性も、ま、事情は知らないけれども、簡単にやめられて、簡単に他の仕事につける状態なら、このコミュニティ(銀座の高級クラブ)は自分に合わないなと思ったら、やめればいいわけです。で、違うコミュニティに所属すればいい。ちなみに、会社ってのもコミュニティで、就職ってのはコミュニティに所属することです。そういう自由度が高ければ、辞めたければ、すぐ辞められる。
コミュニティ間の移動の自由度を高くすることは、コミュニティの多様性を保持することになります。人間は変わるから、入った時には良いなと思っても、そのうち、合わないなと思うこともある。そんなものです。で、合わないところに居続けることは、その人にとっても、コミュニティにとっても、不幸になる。
一応、言っておきますが、香川さんの話は、ちょうど分かりやすい話だから出しているだけであって、それがどうだと言っているわけじゃ無いですよ。こういうことも、無粋ですがいちいち断っておかないと、「価値観の均一化」が進む社会で何があるか分かりませんから。
その上で言うけど、「法律を守っていれば、何をしてもいいのか」という言い方もありますが、いいんですよ。香川さんが法律を守っているとかいう話じゃなくて、一般的な言説として、ですけど。
法律を守っていれば、何をしてもいい。それを「法治国家」と言うんです。でも、日本は法治国家では無い。実態を見れば分かります。
たとえば、制限速度を守っていれば、渋滞を作り、迷惑になる。法律を守ることは、推奨されない。サービス残業のような法律違反も、当たり前です。大体、霞ヶ関が労働基準法を守っていないんですから、官僚が過労になっています。で、労働基準法を守って、定時で帰るとか、有給を理由なく取得すれば「迷惑をかける」と言われる。非常識だと言われる。
日本は法治国家では無いというのは、以前から話していますが。一応、繰り返しておくと、そもそも「法律」というシステムが明治期に西洋から輸入したもので、日本の文化に合っていない。
じゃあ、日本の文化は何かというと「大岡裁き」です。徳のある人物が人情で裁く。これが日本の「常識」です。法律と常識のダブルバインドなので生きづらいんです。個人が、父親と母親の価値観が違う中でダブルバインドになって苦しむのと同じです。夫婦仲が悪くて精神を病む子供と同じです。常識と法律という二親が喧嘩しているから、我々は病気になる。
僕は、一番いいのは、きちんと法律を守る法治国家になることだと思っています。この先も、日本が鎖国して生きていくなら別にいいんですけど、それは世界的な問題(環境問題や軍事問題)の解決からは遠ざかるし、うっすらとでも、世界の共通ルールを築いていく方向になった方が良いとは思う。(一方で、日本の常識的な文化は滅ぶんですが、しょうがない)
世界共通ルールは「法律」です。だったら日本も法律を守る法治国家になった方がよい。でも、その道のりがとても遠そうなのは、現実を見れば分かる。マジ遠い。ってか明治から150年経っても出来ていないんだから、これがすぐ出来るとは思わない。
日本の現状は、法律が強くなるのではなく「常識」が均一化していく方向です。話は逸れるけど、僕は、種子法とかテロ等準備罪に対して、そこまで心配していないし、反対も熱心にならないのは、そもそも日本の現状が法治国家だと思っていないからです。法律なんてどうでもいいと、ほとんどの人が思っている。
てか、そもそも知りもしない。それよりも「常識」の方が強い。法律は「常識」を支えるベースでしかなくて、本当に怖いのは「常識」です。じゃあ、どうやって常識を変えるかというと、多数決の空気です。大半の人がそう思えば変わる。
話を戻して。日本の「常識」がインターネットにより強化されていく。日本の場合は、インターネットは多様性を認める方向よりも、常識を強めて均一化・漂白社会に向かっていった。それにより、少数派は生きにくくなる。
コロナワクチンやマスクの話もそうですね。法律違反でもなんでもないんだけど、ワクチンを打たなかったり、マスクをしないと、生きづらい。現実的に、お店に入れないということも出てくる。生存権の侵害だと思いますけど、んなこと、誰も気にしない。それが常識です。
常識の中にいて幸せに生きられる人はいいんですけど、そうでない人が、どう生きるか。それは「多様なコミュニティづくり」です。そして、そこでは「法律を守っているんだから、何をしたっていいだろう」の精神が必要。
ま、法律にも強い弱いがあるので、守るべき法律、守らなくてもいい法律、いろいろありますが。とりあえず、法律は守る方向で。で、その上で、コミュニティ間の移動の自由度を上げる。そうすれば、風通しは良くなる。それが、多くの人の幸せにつながると思います。
多様性は「常識」と相反するものです。ですから「多様性を認めよう」というSDGS的なやつが「常識」になりつつあるのは、なんとも面白いよね、と思います。自己矛盾ですよ。
じゃあ、SDGSを守らないという意見を認める「多様性」は存在し得るのか。ま、そんなことまで考える人は、そんなにいないから、お経のようにSDGS、SDGSを唱えるのです。そうやって新たな「常識」が作られて、SDGSを守らないものは人ではない、という多様性を認めない方向に行く。それも常識。またあした。
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