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私が国民民主党の批判を行う理由

こんにちは、今回は、なぜこの私が、国民民主党への批判を行ってきたのか、その理由を書いていきたいと思います。

アンチ化した?

私は元来、国民民主党の支持者でしたが、それが新国民民主党になるにあたってアンチ化したという見方が、最も常識的な見方かと思います。

しかし、この私が常識的な考え方をするわけが無いので、それは大きな誤りです。
そもそも、国民民主党に限らず、支持かアンチかという、敵味方で判断するような考えを私は好みません。
好意的に見る部分もあれば、否定的に見る部分もあるのは当たり前ですし、そのグラデーションは人によって様々あるかと思います。

支持かアンチかで切り分けた方が、脳の処理などが楽なのかもしれませんが、それは複雑な物事を正確に捉える際には障害となります。

そもそも、「支持者」という概念自体が口約束に等しいものです。
それこそ、小学生同士の恋愛ごっこみたいなもので、付き合うって言ってるから付き合ってるとか、そういうレベルの話かと思います。
そもそも、「支持者」って案外、曖昧な概念ですよ。

立憲民主党は「どうでもいい」

また、私は立憲民主党に対して甘いのに、国民民主党には厳しい(批判の仕方が不公平だ)とか言われたことがありますが、それは当たり前です。
だって、立憲民主党のことなど、どうでもいいんですから。

私が考えてきたのは、国民民主党の「新しい答え」の体現でこそあれ、立憲民主党の復活ではないのです。

かつて、枝野立憲という、とても悪い悪い悪の集団が存在しましたが、その集団は、国民民主党の独立を妨げ、かつ、実際に国民民主党を取り込むだけの「権威」が存在しました。
それは脅威と考えていましたので、枝野立憲の打破を望んでおりました。

そして、先の衆院選において、枝野立憲は敗北しました。
結果、枝野執行部は退陣し、めでたく、枝野立憲は倒されました。
めでたしめでたし~

で終わっては困るのです。
枝野立憲の打破とは、国民民主党が「新しい答え」を体現するための初めの一歩に過ぎず、いわば通過点でしかありませんでした。
枝野立憲が倒れた以上、新しい野党第一党としての国民民主党の再スタートが始まったと私は考えました。

しかし、どうやら国民民主党の人々は、そうではなかったようです。

小さな政党

当時、国民民主党代表の玉木氏や、国民民主党の支持者は口々にこう言いました。
「国民民主党は小さな政党だ」と。

私は違和感を覚えました。
確かに、現状の国民民主党は小さな政党ですが、枝野立憲を倒した以上は、新しい野党第一党のレースに名乗りを上げることができるはずです。

であるならば、現状の国民民主党が小さかったとしても、国民民主党は新しい野党第一党としての振る舞いを意識して、国民民主党の元に、多くの政治家、ないしは有権者を結集させる必要があると考えました。

新しい党内民主主義(党首公選)

新しい野党第一党としての振る舞いとは、それすなわち、新しい党内民主主義(党首公選)の確立にあると考えました。

立憲民主党は、枝野立憲の崩壊後、フルスペック代表選挙が復活し、党内民主主義の水準が、少なくとも民進党レベルにまで戻りました。
それはすなわち、国民民主党と同等の党内民主主義の制度を、新しい立憲民主党が手にしたこととなります。

それまでは、党内民主主義やフルスペック代表選挙に否定的な枝野体制でしたから、民進党レベルの党内民主主義の制度でも、国民民主党の制度は立憲に勝っていることが明白でした。

しかし、枝野立憲の崩壊により、その前提は崩れ去り、党内民主主義の制度において、国民民主党と立憲民主党の違いは無くなります。要するに、国民民主党は「新しい」わけではなくなりました。
新しい野党第一党を目指すのに、立憲と同等レベルでは話になりません。

根こそぎ、概念ごと、これまでの野党第一党とは異なる党内民主主義の制度を保持するくらいでなくては、「新しい」野党第一党とは言えないと考えていました。

国民民主党は「創造」できていない

国民民主党の「新しい野党第一党」としての私なりのビジョンについては、上記の記事をお読みいただければと思いますが、いずれにしても、私の思い描く党内民主主義の自己改革の動きは、国民民主党において見られませんでした。

これでは、国民民主党は「新しい」野党第一党とは言えないと思いました。まさに、立憲となんにも変わりません。

そして、ツイッター上の国民民主党支持者の動きにも違和感を覚えました。
なんと、立憲批判をこれまでと同じように繰り返しているのです。

立憲を批判したい感情は分かるが……

立憲には問題だらけですから、批判する気持ちは理解できます。
結党の過程のなかでの立憲に対する遺恨もあるのでしょう、その感情も、理解できないものではありません。

しかしながら、もはや立憲を批判したところでさほどの意味もなく、国民民主党が自己改革をしていくフェーズに移行している以上は、立憲民主党の問題点の指摘ではなく、その問題点を踏まえて、国民民主党がどのように「新しい野党第一党」を形成し、体現することで、立憲の存在意義を奪うかが全てです。

その立憲批判は、国民民主党の存在意義の証明の為の批判でしょうか。ならば、立憲に存在意義を頼るような不健全な批判はするものではないと思います。

その立憲批判は、感情に基づく批判でしょうか。ならば、国民民主党の理念たる「中道」の体現によって、「対立の迷路」を抜ける道を模索するべきです。

一つ目の理由

いずれにしろ、枝野立憲なきあとの立憲など、国民民主党が新しい野党第一党を形成する上では「どうでもいい」存在なはずです。
仮に立憲が、国民民主党との合流を主張しようとも、立憲に枝野立憲の頃のような絶対的な権威も力も存在しません。
立憲など、構う必要が皆無ではありませんか。新しい野党第一党の建設に邁進したら良いではありませんか。

ということで、これが私が国民民主党を批判する一つ目の理由です。
私はあくまでも、国民民主党を新しい野党第一党にするという考えしかありません。
となれば、その実現のために様々な提言、発信を行うことに邁進したらよいのです。
もはや、それを阻む枝野立憲は存在していません。なぜに、いつまでも立憲に構い、国民民主党の既存の良い部分ばかりを褒めると言ったことができるでしょうか。

せっかく、自己改革ができる環境が整備されたのに、そこに対してひたすら邁進しないのは何故なんでしょうか。

二つ目の理由

私は、「反立憲」を自負しています。そうとは思わない方もいるのでしょうが、私は今も昔も「反立憲」です。

ゆえに、立憲からの口出し抜きに、国民民主党の野党第一党化に邁進したいので、彼らから国民民主党へ批判する隙を奪わねばなりません。
それゆえに、先んじて国民民主党への批判を行い、その改良を行う必要があります。

国民民主党に対して、的確な自己批判を行い、改善できているとして、他党の人間が口を挟む余地など生じ得ません。

そして、国民民主党への自己批判、およびその改善が適切に行えているということは、その部分については立憲への批判の正当性が成り立つことになります。
国民民主党が「新しい野党第一党」として体現できていることがあったとして、それは、立憲が国民民主党に劣る部分です。

それならば、国民民主党から立憲民主への批判は感情論ではなく、国民民主党ができているのに、なぜに立憲にはそれができないんだという「理屈」の批判となります。
「反立憲」として、立憲民主党への批判を隙無く行えるということです。

立憲から国民民主党への批判の隙を奪い、立憲批判の余地を堂々と突く。
国民民主党への自己批判と改良が無くては、その二つは成り立たないのです。

むしろ、国民民主党への適切な自己批判が存在せず、改良もなされていないならば、立憲から国民民主党への批判の隙は無限に生まれますし、立憲批判を行えるだけ理屈も存在しない(国民民主党が新しい野党第一党として体現できていないことを立憲に要求するのは無理筋)ということとなります。

ゆえに、私は国民民主党への批判を行うのです。

結び

以上、「私が国民民主党批判を行う理由」でした。

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