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「多党制による政権交代」

こんにちは、本日、国民民主党代表の玉木代表が以下のような発信をしました。

玉木代表は「多党制」による政権交代を目指しているという姿勢を示されたわけですが、「多党制」ってどんなものかと、ちょっと考えてみたくなりました。

以前、上のような図を作っていたので活用したいんですが、二大政党制と多党制の違いって、一政党を絶対化するのか、相対化するのか、だと思うんですよね。

もう少し柔らかい言い方をすれば、一つの野党の中で全部の主張や勢力をまとめちゃいましょうってのが二大政党制的な考え方であり、それぞれ政党が分かれつつも、緩やかな「野党ブロック」として連帯していこうというのが多党制的な考え方なのではないかと思います。

「2009年 民主党」という絶対的な存在

前者(二大政党制)の具体例で言えば、2009年に政権交代を果たした民主党です。あれも、国民新党や社民党との連立政権なので、厳密には単独政権ではないのですが、その思想には二大政党的なマインドがあったと思います。

かつての民主党は、現在の立憲民主党、国民民主党、そして日本維新の会やれいわ新選組や政治家女子48党(N国)などを一つにまとめたような政党でした。

民主系の立憲、国民民主は人脈的に直接の繋がりを持っていますし、日本維新の会の「身を切る改革」についてはその源流は民主党にあると考えられます。

かつての民主党は減税的な勢力も包含していたと思いますが、れいわ新選組はその系譜であると考えることもできるでしょう。
N国については、創業者の立花氏が民主党の運動員をしていたという話もあるように、現在存在する多くの政党には、民主党という共通の根っこが存在していることは明らかです。

現在では点在する多くの政党が「派閥・グループ」という形で、民主党という一つの政党に集約していました。
要するに、民主党という絶対的な存在が座す中で、あらゆる考えや経験を持つ人が民主党の元に参集し、結果的には自民党と対峙する一大政党(政権政党)が構築されていくことによって「二大政党」が成立するという意味において、「二大政党とは一政党の絶対化である」と言っているわけです。

一つの政党、この場合では民主党の元にあらゆるマンパワーや人材が全て賄われ、現在では政党という形で可視化されているあらゆる勢力は、当時は派閥やグループという形で、党内において派閥政治を行っていたと考えることができると思います。

相対的な政党が乱立する現在

対して多党制というのは、「絶対者は不在である」という前提があるかと思います。民主党のように、一つの政党にあらゆるマンパワーを集約させるという考え方ではなく、あらゆる政党が一つの政党として独立した状態において、それぞれがそれぞれの専門的な分野に取り組みます。

最近流行りの「ワンイシュー政党」

「ワンイシュー」とも言えるでしょうか。NHK問題だけに取り組むN国とか、減税や反緊縮だけに取り組むれいわ新選組とか、一つの政党で全てを賄おうとはしません。

例えば、N国にはNHK改革を望まない人の居場所はないでしょうし、緊縮財政を支持する人はれいわにおいては存在を保てないでしょう。
このように、あらゆる叡智を一つの政党に集約させるわけではなく、それぞれの政党は専門分野だけに取り組む傾向が強くなります。

立憲は「古典的な第二極」のワンイシューである

立憲と維新などのそこそこ規模のある政党についても例外ではありません。
両党の規模は大きいのでそんな印象も薄いかもしれませんが、それでもいずれの政党も民主党のような絶対性を持ちません。

立憲も政権政党を目指しているものの、その実態は典型的な「第二極」の振る舞いそのものです。維新がいうところの「オールド野党」とも言えるでしょうか。

立憲は、第三極的な有権者の集約に対して積極的とは言えませんし、むしろ進みすぎた第三極に対して攻撃的であると言えます。
改憲についても必ずしも積極的ではなく、維新的なダイナミックな改革の雰囲気を感じ取ることはできません。
総じて「冗長性」を守るという立場に立っており、「無駄の削減」ということに関しては消極的です。

これは、かつて民主党で、実現不可能なマニュフェストを掲げて失敗したという過去が影響しているように思います。
民主党で閣僚格であった人材は健在であり、民主党の時のように無責任なことはできないという認識が強いのでしょう。

そういう点で、立憲民主党は絶対者とは言えず、「古典的な第二極」の専門家という相対的な存在であると見做せるように思います。
古典的な行政監視を基盤とし、第三極的な改革に積極的ではない立憲民主党とて、多党制という考えにおける一政党でしかないのです。

維新は「革新的な第三極」のワンイシューである

維新の会は立憲の逆です。
立憲が大事にしている「古典的な第二極」の役割については軽視している傾向にあるように思います。

「革新的な第三極」とも言えるでしょうか。ダイナミックな改革を是とし、古典的な第二極の在り方については容赦なく切り捨てます。
維新は第三極的な票の集約に特化しているため、「古典的な第二極」を大事にする層からは好かれていないように思います。
巷では、維新単独による政権交代がすぐそこにあるかのような雰囲気ですが、私は必ずしも、そうはならないと見ています。

確かに、維新は民主党的な改革の要素を持っているため、「民主党の再現」ができそうにも見えますが、かつての民主党は現在の立憲民主党的な要素も併せ持っていました。民主党の母体の一つに旧社会党の系譜が含まれているので、これは当然です。

民主党の時は、「古典的な第二極」が飛び道具として「革新的な第三極」という外套を纏っていたからこそ、ほぼ単独での政権交代が成し得たわけなんですが、現在の維新は「革新的な第三極」の要素を持っているのみであり、「古典的な第二極」という土台を持ちません。

むしろ「古典的な第二極」とは対立する立場なのであり、維新一つでありとあらゆる左右の民意の受け皿になることは現実的ではないように思います。
こういう意味において、維新もまた絶対的な存在であるとは言えません。
「革新的な第三極」という専門家に過ぎず、むしろ相対的な存在であると言えます。
古典的な行政監視を足蹴にし、第三極的な改革への比重が強い維新もまた、多党制という考えにおける一政党でしかないのです。

「多党制による政権交代」とは?

さて、今記事のきっかけになった、玉木代表が示された「多党制による政権交代」という考え方ですが、現在の日本政治の中でこれを具体的に実現するためには何が必要なのでしょうか?

絶対者は不在であるという共通認識を固める

従来の二大政党制の考え方から多党制の考え方に移っていくためにまず必要なのは、絶対者の不在という認識です。
どこか特定の政党が、単独で政権を担うことは不可能であるということを知る必要があります。

このように政党が乱立していると、他党との連携は不要であるといった考え方が蔓延しやすいですが、こういった考え方は自身の政党を絶対視することにも繋がりかねません。

エッジを利かせるだけでは「多党制」は真価を発揮しない

無論、多党制においてはそれぞれの政党がエッジを利かせるという要素は必要になります。それこそが専門性とも言えますし、幅広いの有権者の民意を集約するにはこのエッジこそが欠かせません。

しかし、最終的には他党との連携が欠かせないという考えを持たないならば、「船頭多くしてなんとやら」ということわざの通り、単に考えがバラバラの政党が乱立しているだけで、多党制の最終形とも言える「連立政権」は成り立ちません。

多党制を多党制足らしめんとするのは、それぞれのエッジの利いた専門性のみならず、最終的には緩やかな連帯を許容することでもあるのです。

それは本当に「多党制」と言えるのか?

多党制という考え方の危うさとして、それぞれの政党がその専門性に特化することによって、最終的な「緩やかな連帯」を許容できないことです。
多党制とは、単にそれぞれの政党が好き勝手振舞うことではなく、その個性を集約することによって、ようやく真価を発揮するものなのです。

国民民主党の代表選挙においても、この「多党制」というワードが一つのキーワードになると思いますけれど、単にそれぞれの政党が好き勝手振舞うことを「多党制」と位置付けているのか、それぞれのエッジを最終的に集約させることまで含めて、「多党制」と位置付けているのか、その点についてはよく注視する必要があるように思います。

以上、「多党制による政権交代」でした!
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