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 まだ、何かあるはずだと、信じ続けるには、少し年を取り過ぎたし、少し疲れてしまった。だからといって、今までも、前を向いて、ただひたすらに進んで来たわけでもない。正しい努力が何なのかも、正しい道がどこなのかも、わからないまま、気が付けば、こんなところまで来てしまった。
 そもそも「正しさ」なんて、一過性のもので、それぞれの価値観で、容易く覆ってしまうものだって、心の底ではわかっているのに、まだどこかで、その絶対的な力を信じていて、まだどこかに、絶対に揺るがないそいつがあるって思って、諦めきれない。

 幼い頃に想像していた「大人」の私は、やりたい仕事に就いてバリバリ働き、恋愛結婚して、子供もいて、とにかく幸せな生活をしていた。けれど、いつの間にか、やりたかったこととは程遠い、毎日を生きていくことを一番の前提に置いた仕事に就き、同い年はもちろん、年下の友人たちが次々と身を固めていく中で、恋愛だって数えるほどしかしたことがない。自分の人生に責任を持つことさえままならないのに、子供を持つなんて夢のまた夢だ。
 いつ、どこで、何を、間違えたのだろう。
 愚かにも、必死に「間違い」を探してみるけれど、今の生活が「間違っている」と思いたいけれど、今ここにいる自分は「間違い」なのだと思いたいけれど、実は何も間違えてはいないのだ。すべてが正しい形として存在している。すべてが過去の終結として今を形どっている。
 いつだって正しさを追い求めて、不正解に細心の注意を払い、間違いを犯すことを何よりも怯えてきたのに、「間違いではないこと」が救いにならない日が来るなんて、想像もしなかった。

 毎朝、数分おきに到着する電車から吐き出される、数えきれない程の人々の全てが、社会の歯車として、どこかに「所属」しているのだ、と気付いたときの、驚愕と不快感を、今は上手く思い出せない。自分がその中の一人だという事実に目を伏せて、世間一般の常識に縛られまい、その他大勢に迎合するまい、私は違うのだ、と、口元に薄笑いを浮かべ斜に構えながら、世界を見ることがかっこいいと思っていた過去は既に遠く、恥ずかしさもなく笑って話せるようになっている。

 「変わりたい」と思うことは、なんて贅沢なことなのだろう。一年前、一ヶ月前、そして昨日と同じ自分を保つ事にさえ必死なのに。「変わること」よりも「変わらないこと」に一層の努力が必要となっている。新しいものが恐怖の対象となり、よく見知った自分の体温により近いものに安心を覚え始めたとき、それが人が「老いる」ということなのかもしれない。私は刻一刻と、身に迫る老いに抗うこともせず、この身を委ね始めている。
 
 芳しい思い出を、何度も思い出して味わっているうちに、それはガムみたいにどんどん味が薄くなって、最後には本当はどんな味だったのか、わからなくなってしまう。それが、忘れたくない思い出であればあるほど、無味になる速度が早くて、気づいたときには、何が本当だったのかわからなくなってしまう。

 終わりが見つからない。終わりたくない。終わらせたい。両極端の考えの端と端をつなぎ合わせて、同じところをぐるぐると回り続けている。そうしていつかバターになって、パンケーキになって、子供を笑顔にできたなら、それは幸せなことだろう。

 嘘。全部、嘘。

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