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なぜ創るのか

小さい頃から空想が好きだった。
最初は、アニメや絵本、ゲームに影響され、既存の物語の中に自分が入り込む空想が多かった。次第に、オリジナルの世界に全く違う人格が生まれ、作者と作品という関係になっていった。
しかし、周りの人はそれを良しとしなかった。特に大人は、空想ばかりにふけりありもしない世界を語る私を気味悪く思い、現実の勉強やピアノなどの「意義があるもの」に目を向けさせようと必死だった。同年代の子どもたちは、私を不思議ちゃんとして扱い、からかったりいじめたり無視したりと……まあ、いわゆる浮いている子だった。
それが15年続いた。生まれてからずっと、いくら辞めろと言われても怒られても続け、高校生になる頃には、私の中には様々な世界と人格が生まれ、日々を生き、死んでいっていた。
意地で続けていたわけではない。言葉を話すよりも先にしていた行動の辞め方も、辞めるだけの理由も無かっただけだ。息をするのを辞めなさいと言われても無理だろう。ただそれだけ。
しかし、周囲の反応の影響は大きかった。私は他人に、直接自分が構築した世界を語ることは無かったし、絵や小説なども見せることはなかった。否定されることに嫌気が差していた。
唯一、匿名性の高いSNSでのみ、ぽつぽつと語っていたが、今思い返すとほとんど喋ってなかったと思う。
私は被虐児で勉強どころか生きることで精一杯だったのだが、中学卒業間際に祖父母に引き取られて生活が安定した。かと言ってそこから、突然将来を考えたり、勉強に打ち込めるはずもなく、とりあえず高校だけは行けという祖父母に従って、芸術系の高校に入学した。校則どころか偏差値も無いような学校だったが、1人の非常勤講師と出会い、人生が変わる。
芸術系の高校なので、当然自分の作品は見せなくてはならない。「ああ、また否定されるのか……」と内心嫌気が指しつつ、その講師に作品を手渡した。ルーズリーフ4枚になぐり書きされたそれを、講師は長いこと見ていた。何回も何回も読み返し、そして大きい声で言ったのだ。
「君の世界観は面白いね!!!」
天変地異。驚天動地。私の視界は大きく広がり、突如として鮮やかに色づいた。
「でも構図のセンスはないね。」
次の一言で、少し落ち着いた。
その講師は私の世界観をかなり気に入り、次のはまだか、今は何を考えているのか、もっと話を聞きたいと、騒がしく喋り笑った。校舎のどこにいても声が聞こえそうなほど煩いその人に、最初は苦手意識を持っていたが、次第に自分の描く世界を見せていくようになった。やがて友達にも臆することなく見せるようになり、私の日々は言葉では言い表せないほど楽しいものになった。
そんな高校生活はあっという間に終わり、私は祖父母をなんとか説得し、多額の奨学金を抱えて専門学校に進んだ。とはいえ、小説家や漫画家は目指さず、安定感のあるCGの道を選んだ。理由は2つ。親などからの支援がない中虚弱体質で持病も多く、アルバイトなどをしながら夢を追うというハードな生活が出来ないから。そして、圧倒的にセンスが無かったから。
高校3年間、全講師が私に「センスがいまいち」と言い続けた。私も周囲の作品を見ていて、自分のセンスの無さには気づいていた。趣味ならまだしも、プロとして生きるのは過酷な道だ。絵も文章も、上手い人というのは山のようにいる。その中から選ばれるだけの魅力や、飛び抜けた才覚が私には無かった。
とはいえ、CGも2年生から独学で始めて熱中していたので妥協したという感覚もなかった。負け惜しみ?まあ、私は地に足を付けて生きたいタイプなのだ。自分の力でなんとかなる状態が良い。飛行機は苦手。地盤を固めたうえで楽しみたい。これを、臆病者と言うか、賢者と言うかは人それぞれだろう。
ちなみに、進学を期に高校の友人とは疎遠になった。それでも、それなりに楽しいキャンパスライフを満喫していた矢先、ただ1人私の世界観を褒めてくれた講師が亡くなった。突然の死だった。天変地異。驚天動地。私の視界は真っ暗になった。
見守ってるって言ったじゃないか……いつでも相談に来いって言ったじゃないか、20歳になったらお酒飲もうって、私の作品楽しみにしてるって、そう言ったじゃないか!!!!
悲しかった。苦しかった。そして、悔しかった。命は突然終わることを知っていたのに、どうして後回しにしてしまったのか。いつでも会いに行けるから、話ができるからって、忙しいからって連絡もしないで、どうしてもっと大事にしなかったのか。どうしてもっと、感謝を、伝えなかったのか……。
どんなに悔いても、時間は進むだけだった。
ふわふわと浮いているような感覚で日々をこなした。
次第に、自分がなぜ創り続けるのか分からなくなっていった。
生活のため、自立のため、生きるにはお金がいる、お金を得るには働く、私は障害枠に入れない障害者だから技術を習得しないといけない、だから、創るんだ……そうでしょ?
周りが輝いて見えた。映画が好きだから、ゲームが好きだから、この業界に入るのが夢だから、そうして希望に満ちたクラスメイトたちが、遥か遠くの存在に思えた。
それでもなんとか生きなくてはと、ふらふら進み、そして、折れた。
抑えようのない自殺衝動、溺れそうな罪悪感、指先すら動かせない倦怠感、刺すような情報感……泣くことも笑うこともできなくなった。
治療が始まった。
投薬とカウンセリング。スクールカウンセリングには講師が亡くなった数ヶ月後から通っていたが、それまでは亡くなった講師の代わりを求めていたのが、本格的な自身の振り返りと制御に変わった。
学校は休学せざる終えなかった。単位を落とせば奨学金も廃止されるし、就活に進めるような状態ではなかった。
最初はただ、横になっていた。猫の世話と最低限の食事と風呂。トイレに行くのに1時間以上掛かるのは当たり前。その状態にキレた祖母の罵声も、心に響かなかった。
眠ることも動くことも出来ない。自分が固体か気体か、はたまた液体かすら分からなくなっていた。
猫を撫でる。今を生きている、小さな命。過去も将来も考えず、ただ、今したいことをする姿に癒やされた。
投薬とカウンセリング、そして猫の力で、少しずつ生活ができるようになった。
料理、食事、風呂、掃除。人間っぽい生活が送れるようになって、次に手を付けたのは創作だった。たまたま、祖母が編み物をやっていたから、全くやったこと無い編み物を始めた。最初は集中できなくて、休み休みやった。1目も編まない日もあったし、自殺衝動と戦って何日も起きられない日もあった。でも、楽しいと思った。
私は元々、異常な集中力と手の速さを持っていた。鬱になって消えてしまったと思ったそれは、時が経つにつれて戻り、次々と物を作り出していった。
小説やレジン、販売も始めた頃、ふと思った。
私はなぜ、創るのか。
実は結構、色んなことを諦めてきた。病気だから、母がお金をくれないから、養父が怒るから……周りの影響で諦めたり捨てたものなんて、数えきれないほどある。それなのに、なぜ私は「そうぞう」だけは辞めなかったのか。
15年間、辞めろと言われ続けた。
3年間、センスがないと言われ続けた。
ずっと褒めてくれていた先生が死んだ。
友達と疎遠になった。
誰に見せることも、褒められるわけでもないのに、なぜ辞めなかった。なぜ諦めなかった。他にも道はたくさんあったのに、なぜ、この道にいるのか。
そして気づいた。
私は自分の作品を愛している。
不格好でもセンスがなくても、数多の世界と人格を、この手が生み出す数々の作品を、誰よりも愛している。
自分が満足するために創り続けていた。
無意識に、この道じゃなきゃ嫌だと選んでいた。
そうか、そうだったのか。
笑ってしまった。20年以上、こんな簡単なことに気づかない自分の愚かさに、それでも諦めなかった意固地さに、そんな自分を見つけられた私自身に、ほんの少し愛おしいと思った。
私は私の作品の1番のファンだ。
これまでも、今も、そしてこれからもそうでありたい。
未だしつこい希死念慮や不眠、身体や環境の問題は山積みだが、支えてくれる人々に、そして私を認めてくれた先生に、胸を張れるように生きていく。そう固く誓う。

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